理解出来ない。でも、思い当たる。

先日書いたこちらのnoteで取り上げた、「たった一人で熱狂せよ」。
このnoteを書き終えた後に思い出した。
この本を最初に読んだとき、一番引っかかって、大きな疑問符がついたのが、この節だった、ということを。

プレゼンの際、相手に照準を合わせて準備するのは至って普通のことだ。
色々と調査して、考えを練り上げ、相手に合わせた言葉でプレゼンする人ではなく、自分のアイディアに夢中でプレゼン相手がどう思おうと気にせず、熱狂して何を言ってるかよく分からない人の方のプレゼンが通ったら、社内でちょっとした暴動が起きやしないのか。
「結局、声を大きくして社長に言ったもん勝ちじゃん」ってことにならないのか。
ずっとそう思っていた。

「たなしー、キタ!!」愛ちゃんがそう叫んだのは、こちらを最初に読んでから約3年後。けれどその時すぐにこの言葉「たった一人の熱狂」を思い出した訳ではない。

思い出したのは、思い当たったのは、「病めるとき」だった。

***

その時私は転職した会社が全く合わず、相当ヤラれていた。色々と身体症状も出ていて、このまま続けていくことが出来ないのは明白だった。
辞めること自体にはあまり抵抗がなかったが、当時入社してまだ2ヶ月。いかんせん早すぎる。悶々としていた。

後に、この時の心のカケラが、スマホからぽろっと飛び出してきた。

Googleツールバーに、「い」と入力した、最初の検索候補。
いっそクビにしてくれ

この検索をした時の事は、はっきりと思い出す事が出来る。
見晴らしのよい場所で外を眺めながら、病んでたあの時期にしてはとても清々しい気分だった。

…スマホで「いっそクビにしてくれ」と検索する事のどこに「清々しい」要素があるのか、今となっては本気で分からない。
おぼろげに思うのは、「泥酔して千鳥足で『大丈夫。まだ酔ってないから』って言う酔っ払い」に、たぶん割と近い感じだったんじゃないか、ということくらい。どのみち、相当おかしくなっていた事には間違いない。

それにしても、家族も友人も知らない、病み盛りのあの一瞬をGoogleさまはご記憶なさってたということだ。
あぁ、健やかなる時も病める時も、その大いなる位置情報と共に、スマホと三位一体となって主の心を映し出す、そうなんですね、Google検索バー さん。
あなおそろしや

***

そう思えるのは、完全に病みあがったと思える今でこそだ。
闇とか病みとかの渦中では、自分に何が起こってるのかよくわからない。

明らかに良くないもの、が染み渡った体を引き摺って、でもどこか気付かぬフリをして彷徨った。ねじれは歪みを熟み、生じた毒素は体を駆け巡り、さまざまな症状となって現れた。

傷口に塩が沁みるように、傷んだ心と頭には、色んなものが、良く滲みた。

普段していた行動ー例えば休日に出かけること、が出来なくなっていった。
何でもなかった音楽が、突き刺さったりした。

そんな時だった。
忘れていた、でも忘れ去っていたわけではない言葉が2つ、心の底から浮かび上がってきて出逢ったのは。

「たった一人で熱狂せよ」
「たなしー、キタ!!」

思い当たった、理解は出来ないままに。
病んでいるなか造られた、仮設の思考回路のその上で。

***

理解出来ない、でも、思い当たる、という着地
病んでいる最中だけの思考
酔っぱらってしてきた連絡に潜む本音
悲しみの中でしか見ることの出来ない、美しい風景
育児の中の育自

存在を識ることのなかった、「あわいのいろ」。
それがどんどん増えて行き、文字通り「彩り豊かな人生」となるのであれば、齢を重ねることは決して悪くない。

***

ところで、「たった一人で熱狂せよ」の節の扉には、見城徹氏のものと思われる、こんな言葉が記されている。

本来熱狂は、集団を襲うものだ。
熱狂が過ぎ去り、あたりに人がいなくなっても、
自分の中に火種を見出せたら、
それこそは本物の情熱である。

「観察者としての目線」。それが、「自分の中の火種」かもしれない。
ぼんやりと、そんな風に思い始めている。

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