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子どもをあずけて夫婦デートは「かわいそう」?

3連休初日はわたしの誕生日だった。

2週間ほど前、誕生日はどう過ごしたい? と夫に聞かれ、ひさびさにおデートしましょ! とリクエスト。おいしいお酒をたっぷり飲みたいし、ゆっくり話したいし。
・・・・ということで、10ヶ月の娘はシッターさんにお願いすることに。

当日、娘を預けたのは3時間半。その間いただいたワインも食事もものすごくおいしかったし、なにを話したかすでに忘れたけど、それくらいどうでもいい話で盛り上がった。帰ったら娘はごはんを完食してすやすや寝ていたので、ふたりでケーキをつついた。

この「シッターさんに預けてふたりで外食」は、今年に入って3回目。支払う金額はだいたい毎回1万円ちょっと。これが高いか安いかは、人によって違うと思う。
ただわたしは、夫婦とは自分の意志でつくった基本ユニットなので「コミュニケーションのためのコストは惜しんではならない!」というのが信条。
平日の朝もときどきはやめに娘を保育園に預けてコーヒースタンドで軽くおしゃべりしたりするし(認可外なので許されるらしい)、夫がこういうスタイルに難色を示す人じゃなくてよかったというか、むしろノリノリの人でよかった。

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さて、この誕生日の過ごし方をある友人に話したところ、やや責められ口調で「シッターとか、まじで!?」と言われてしまった。怖いなと思いつつ、まじですと答えつつ、以前見た「『週1で子供をベビーシッターに預けて夫とデート』道端アンジェリカ発言に賛否」というネットニュースを思い出す。

このニュースの「否」もそうだけど、子育て問題でだいたい飛び出すのが「子どもがかわいそう」というセリフ。これ、もはやひとつの定型文だけど「ほんとに?」って考えるとそうでもなかったりする。

まず、わたしも子どもを産んではじめて実感したのだけど、「子ども」という人格はない。1歳児でも一人ひとり性格がおもしろいほどに違うし、「全員が同じように寂しく感じる」ことはなさそうだな、と感じている。親の接し方も違うしね。
大人になってから鍵っ子を振り返って「寂しかった」という人もいるし、「寂しくなかった」という人もいる。そこはもう、他人じゃなくて家族だけが判断できる領域だ。

そして、こういう文脈での「子どもがかわいそう」はちょっと雑な表現だと思う。ほんとうは「子どもがかわいそうだと自分は思う」じゃないかな。主体は子どもじゃなくて、そう思う自分。どんなケースでもそこは分離して話さなきゃ、コミュニケーションにならない。

子どもの性格は十人十色、家庭のかたちも選択も文化もそれぞれ。
だから、自分のスタンダードとは違って口を出したくなっても、ぐっと飲み込むのが近代的たしなみだと思う。

そのうえでどうしても物申したかったら、「わたしはかわいそうだと思うんだけどね」と言ってほしい。そうすれば、「そうか、あなたはそう思うのね」とすっと受け止められる・・・・かもしれないから。

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