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たとえ話のちから

昨日の東京はちょっとおかしな天気だった。12月とは思えない気温。湿度も高く、少し動くと汗ばむほど蒸し暑い。打ち合わせや飲み会では、

「台風みたいな天気ですね」
「春の嵐みたいな空気ですね」

といった会話を幾度となく交わした。

こんなふうに私たちは、ほぼ無意識のうちにたくさんの感覚や記憶の共通項を見出し、共感をさぐってコミュニケーションを取っている。ただ「暑いね」ではなく「◯◯みたいだね」と表現することで、より「わかるわかる!」となる。

こうした表現は、近い文化や知識を持っているからこそ伝わる。「春の嵐みたい」は台風や四季の存在しない諸外国の方とは成り立たないし、「エルサルバドルの7月みたいな空気だね」と言われても「そうだね」とは言えない。だからこそ、「○○みたい」をシェアできたときに共感度が上がるのだろう。


そして、読者により強く「わかって」もらうためにライターであるわたしが文章に取り入れるのが、「たとえ話」だ。伝えたいことや説明したいことを、相手がより深く理解・共感・納得できるよう、眼前に絵が思い浮かぶような内容で言い換えること。たとえば倒産間近の会社が奇跡的にヒット商品を出し起死回生したエピソードは「ツーアウトからの逆転満塁ホームラン」、というように(これはベタの極みだけど)。

こうしたたとえ話がカチッとハマると、ぱぁっと情景が浮かぶ。理解度が二歩も三歩も進む。理解度が進めば、おもしろさも二歩三歩進む。いいな、と思う文章を探ると、たとえ話が巧みであることも多い。

ちなみにバトンズで古賀さんから原稿に朱入れしてもらうとき、こうしたたとえ話の頻度や表現、「わかる」の強さにぐぬぬ、となることがとても多い。たとえ話の役割もここから学んだ。

……と考えると、たとえ話に対して必要以上に気負ってしまいそうだけど。冒頭の「春の嵐みたいな」のように、じつは、たとえ話ってとても身近なものだ。

昨晩の飲み会だって、意識してみると、みんな(おそらく)無意識のうちに小さなたとえをたくさん使って話していた。自分で言ってハッとしたり耳に入ったりしただけでも、

「ネトゲ廃人みたいにじーっと座って目だけ動かす仕事で」
「テポドンみたいにやってきた」
「M-1の和牛的なポジション(ずっとナンバーツー的な意)」

といった言い回しがあって。たとえ話って案外リアルでは使われているし、それによって場がぐっとあたたまったり盛り上がったりするものだなあ、と思った。リアルでも文章でも、ひととひととをつなげる役割を担っているのだ。


そうそう、この前実家の母と電話で娘の話をしていて、ふと「わたしってどんな子どもだった?」と聞くと「とにかく本を読んでた」と教えてくれた。

そして、ああそういえば、というふうに「お姉ちゃんと比べて、やたらとたとえ話を交えて話す子だった、それがおもしろくて」と。へえ、そうなんだ。

——もっと伝えたい、理解してほしい、同じものを同じ粒度で見て共感してほしい。

そんな思いがあったのかもしれない、と微笑ましくなる。

まだまだ未熟だけど、より正確に深く理解してもらうため、そしておもしさを感じてもらうために。

今日もわたしはたとえ話を頭の中でぐるぐる考えながら、ひたすら書くのだ。

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