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子どもに自己肯定感を持ってほしくて考えたこと

親になるにあたって、妊娠中からいろいろと考えてきた。お題は主に「この子にどんな人生を歩んでほしいか?」。考えてもそのとおりになるわけじゃないのは重々承知だけど、なんとなく子育てに悩んだときの指針になるような気がして、ゆるーく考え続けていた。

その中には大小いくつかの願いがあるのだけど、「これだけはなにとぞ!」という項目がある。アレだ。

おなじみ、「高い自己肯定感を持ったひとになってほしい」

・・・・もうさんざん言われ尽くされていることだけど、やっぱり自己肯定感ってめちゃめちゃ大切だ。なにかの局面で「えいや!」と一歩踏み出せるかどうか、周りの人を臆面なく巻き込めるかどうか、そもそも明朗快活に生きていけるかどうかなどは自己肯定感にかかっている、とわたしは思っている。というか、自己肯定感が高いひとって、いい表情をしているのだよ。チャーミングだし。

しかしこの願いには問題がある。母であるわたし自身が、どうも自己肯定感が低いらしいのだ。ぜんぜん「自分は自分、かけがえのない存在よ(パーン!)」みたいな感覚がない。 

これは自己肯定感が低いことでのデメリットというか、「娘にこうなってほしくない」の理由なのだけど、わたし自身コンプレックスがとても多かった。とくに思春期は見た目へのコンプレックスがひどく、ざっくり言えば「自分のスペックはすべてダメ!」という感覚だった。

華奢じゃない体型も、バタくさい顔も、矯正しなければならなかった歯列も、「ハズレばっか」。顔の個々のパーツも「自分とは正反対のパーツ」に憧れた(切れ長の目とか、こじんまりとした鼻とか)。強度乱視に対しても「やっぱりこういう欠陥が与えられてしまうんだな・・・・」と思っていた。暗い。

娘にこんな思いはさせたくないが、じゃあどうすればええのん?
「大好き」と言いながらぎゅっとするといい、と言われるけれど、やってみるけれども、それでもコンプレックスを持っちゃったら?

そんな問いを頭にずっと置いているのだけど、今日コンビニで『装苑』をパラパラめくりながら、ふと思った。
少なくとも見た目コンプレックスは「正解の美」から逸脱していることに対する劣等感なんじゃないか。つまり、同一性が色濃い場に生じやすいんじゃないか。あ、だから日本の女子高生の74%が自分の容姿に自信を持てないんじゃないか?

だったら、娘がビジュアルに対してあれやこれやとコンプレックスを持ってしまったときには「ここじゃない場所」を見せてあげたらどうだろう? あなたが「基準」だと思っているものはきわめて狭い世界のものだよって。

『装苑』に載っているものは、美しい。まとっている人やテーマがもっとも際立つ美しさで誌面が埋め尽くされている。
しかし服もメイクも独創的で、どれも街を歩けば当たるような「ありきたりさ」とはかけ離れている。
ちょっと自分がいる場所をズラせば、自分が見る視点の高さを変えれば、基準はダイナミックに変わる。
自分がきわめて小さな同一集団の中で思い悩んでいることに気づき、色とりどりの広い世界を目にしたら、少しはラクにならないかなあ。

「自己肯定感」という大きなテーマに対する答えは、探し続けていてもまだ見えてこない。そんな母が言って説得力があるのかはサッパリわからないけれど、「いかに多様性は世界から愛されているのか」ということ、「あなたはそんなすばらしい多様性を構成するひとりである」ということを伝えられたらいいなあと思う。

いやー、そんな話ができる日なんて、ぜんぜん想像つかないけどね。ばぶばぶ。


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