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『介護と働く』 #07:介護はエゴも大切 -自由と自主性- (3/3)

自由に潜む孤独

父が倒れてからというもの、残された家族には数々の選択が迫られる。本人の意思を聞けない状況で。

「ご家族の良いと思う選択をしてください」

「ご家族の自由です」

自由。なんとも耳障りの良い言葉だが、ときに「自由」は世の中から突き放された気分になることもある。孤独だ。

こういった気分になったときを思い返すと、自分たちの意志が朧げなときにこれが強くなる気がする。


世界とのつながりを感じられる自主性

では、この気分を払拭するにはどうしたらよいか。

答えのひとつは、自主性だと思う。

自主的に決断に必要な情報を取りに行っている。誰かが言ってたからではなく、自主的に決断している。その自主性を自覚できることが、きちんと父や病と向き合っている確かな感覚、もっといえば生き心地をもたらしてくれた。

意志を生むにも、何の足がかりもないと、まるで暗闇を彷徨うように、次へ進む決断が怖くなる。本当にこの決断でよいのだろうかと。

それを考えると、自主性の効果は、決断までのプロセスに強く表れたと思う。

私たちは、(少しくどいくらい)様々な病院や地域関係者に相談をお願いし、丁寧な助言や支援を受けた。こういったプロセスを通して、医療や介護に向き合うとき、田中家が世界の片隅にポツンと存在しているのではなく、様々な方と手を携えて前へ進んでいるを再認識できたのである。

自由の中に湧き上がる孤独が消えていく瞬間だった。


自由からの逃走

自由と自主性を結びつけると、「自由からの逃走」という本を思い出す。

この本では、ざっくり以下のようなことが記されている。

近代までは目に見える権威(たとえば国民を圧政する国家や外敵)からの自由を求めて戦ってきたが、いざ自由を獲得すると人々は孤独や無力感に苛まれる。

だからその孤独から逃れるため、目に見えない新たな権威(たとえば常識や世論)に従属したり、周囲の期待に沿った自分を作り上げたり、全てに無関心になったりしている。求めていた自由の苦しみから逃避するため、あえて自我を喪失しているというのだ。

つまり、自己を抑制していた権威から自己を得るため自由を求めるが、その結果再び別の権威への従属を求め、自己を喪失している。

たしかに、「働く」においても思い当たる節はある。

自由に自分を表現したいと思いながらも、空気やこれまでのやり方を重んじる大企業で働くことも、そうかもしれない。

自分のやりたいことがあっても、「偉い人」の意見を聞きまくり、その人の意見に寄せて編集してしまうことも、そうかもしれない。

世間や親族から「よい」と言われる組織で働くことも、そうかもしれない。

「自由からの逃走」では、これを解消する方法を「自主性」としてまとめている。

何かに従属した世界に生きるのではなく、自主的に世界とつながることで、孤立を生まない自由にたどり着く。自主性を持てば、自由の中で強い自我を保って活動できる、と。

まさに先ほど述べたことと同じだ。(というか、この本に影響されていることは否めない…)


自主性→自己責任は正しいのか

一方で今回の介護体験を経て、この本を思い返しながら自主性に考察を膨らますと、「自主性」と「自己責任」を強く結びつけることは気をつけたほうがよいな、と思った。

自分の行動に責任を持つことはもちろん大切だが、行き過ぎた自己責任論(特に周囲に自己責任という名の美徳を強要されること)は、自分の意志で行動することに恐れを生んで、自主性を破壊するのではないかという危惧だ。

だから、自己責任の負担から解放され、自主性を強く保つために、ある程度のセーフティネットは必要だ。ここまでは自己責任だけど、ここまでは国や組織に守られているという状況は、ちょっと怖いけど死ぬわけではないしやってみよう、という勇気を与えてくれる。


周囲に感謝してエゴを持つ

介護の場合も、ある程度は介護活動の一部を自治体や民間のサービスに代替して体力的に守られているし、介護資金が少なければ自治体から経済的に守られる。

仕事の場合も、たとえば起業や副業兼業のセーフティネットは徐々に作られつつある。

介護でも仕事でも世界が助けてくれる土壌はできつつあるのだから、私たちが自分自身でできることは、自分がやりたいこと、つまり「エゴ」を自信を持って作り上げることなのではないだろうか。


おわり





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