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『介護と働く』 #05:介護はエゴも大切 -自由と自主性- (1/3)

初夏に父が倒れてから、私たち家族は幾度も「自由」な選択が迫られた。

父の居場所

まずは、父が運ばれた救急病院で約1ヶ月間検査や治療が行われたその後、父がどこで過ごすか、ということだ。

救急病院の医師には、病状的に治る見込みが薄いことから、「療養病床」や「特別養護老人ホーム」を勧められた。医師曰く、終の住処として最適な施設で、静かに穏やかに過ごすのが良いということだった。

しかし、正直なところ、私はこの医師の姿勢に苛立ちすら覚えた。勧められた施設が良い悪いということではなく、家族はどうしたいか聞いてくれたら少しは気分も違っただろう。とはいえ、医師の立場からしたら、最も理にかなった選択なのだと思う。端的に、そして理性的に伝えられたその言葉に、私たち家族の気持ちが追いつかなかったのだ。

だから、私たちは自ら次の父の居場所を探すことにした。ネットや本の探索はもとより、知り合いに紹介してもらった医師にも相談した。父は意思疎通が取れないので、父はどうしたいだろうかと母や弟と話し、結果的に、少しでもコミュニケーションが取れるようになるのを期待してリハビリを施す施設に移ることを決めた。

そして8月の末、父は都内の回復期リハビリテーション病棟に転院した。リハビリが主なので、病が良くなることは期待できないが、身体を動かしたり、会話を投げかけたり、外からの刺激を積極的に与えることで、意識レベルや身体の動きを回復することが目的だ。

なお、リハビリ病棟は疾患によってリハビリ期間が決まっており、父のように高次脳機能障害の場合は180日間が最長である。(大きな疾患だけでなく、腰痛とかでリハビリを受けるときもリハビリ期間が決まっている。)


もっとも重い要介護者になった父

その180日の間、コロナの影響で父に直接会うことはほとんどできなかった。月に一度、タブレット越しに父の様子を見られる「リモート面会」が唯一の面会方法。(今流行り!画面越しで残念ではあったが、テクノロジーの発展に感謝した瞬間だった。)

そんな状況で、転院後初めて父と対面したのは、要介護認定の調査が行われた秋口だった。これは、介護を必要とする人が介護サービスを受けられるように社会全体で支援してくれる「公的介護保険」が適用される人かどうかを調査するものである。

この調査で介護が必要と認定されれば、公的介護保険から介護サービスの一部を負担してもらえる。その結果、父は「要介護5」という最も介護を必要とする状態と認定されたわけだが。


在宅介護を決めたとき

市の調査員が、リハビリ病棟に出向き父の状況を調査する際、家族も立ち会うのだが、その際に生の父を久しぶりに見た。

言葉を話せない父ではあるが、調査員の発言にまばたきで正確に答えたのである。(例えば、「あなたの出身は東京ですか?」「好きなサッカーチームはガンバ大阪ですか?」とか)

父は、考えること、記憶を呼び起こすことがまだできるのだ。

そして、私たちが呼びかけるとかすかに笑みを浮かべていた。

そんな姿を見たら、やっぱり傍にいたいし、何より父が毎日過ごしていた実家に戻してあげたいという気持ちが高ぶったのである。

だから、リハビリ病棟を退院した後、私たち家族は父を自宅に帰し、在宅介護を行おうと決めた。

そして私は、田中家の介護生活にちゃんと寄り添うため、一人暮らしの家を解約し、実家に戻ることを決めた。


つづく


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