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第一話 はじまりの話 その① 【内科で働くセラピストの話】

春はこの街に心地良い香りを運んでくる。

白波百合(しらなみゆり)は背中に寄りかかるバックをぎゅっと握りしめたまま大きく息を吸った。

春先のなんとも言えない穏やかな香りが体の中を満たしていく気分がした。肩まで伸びた淡いしっかりとした茶味のかかった髪は一つにまとまり、歩く度に揺れている。大きくはない背丈で踏み出される歩幅は人より広い。そして春の光に白い両手をかざすとオレンジ色に透けて見えた。

白波は地下鉄を降りて病院へと続く道を歩く。
街の人の足取りもなんだか軽いように思える。辺りはまだ決して暖かいとは言えない。それはこの街の宿命なのだから仕様がないとも思う。
白波は病院の前に辿り着きぐっと頭を持ち上げてそれを見る。

すべての病床数は200床ほどでその殆どが回復期病棟である。
リハビリテーションが頻回にメディアに登場するようになってしばらく経つ。自分もまたその中で理学療法士として働いているのだから、それは嬉しいと思う。ここは回復期病院としては大きい方の病院だと思う。
自分は去年、まだ一年目の頃、回復期病棟でリハビリを実施していた。
役割としては治療の終えた患者を自宅に帰れるように、運動と生活指導を実施する。大まかに言うとそんな所だ。

だけども、今年から自分で志望したとは言え、その中の30床ほどしかない一般病床へと配属となった。
周りの人は大変に心配していた。それもその筈、緊急入院も多く受け入れており、その割には回復期の病院として名高い場所であるから、一般病床の人員も少ない。制度上、病院を経営する上でその方がメリットがあるのだけれど、その分毎日が戦場のようだと聞いている。

事実、一年以上働けるスタッフは数少ないと言われる。
そしてもう一つの理由が、今ではその病棟唯一の理学療法士の先輩が原因だとも聞いている。

やっぱり怖いっすかね・・・

白波は心の奥底から湧き上がる自分の弱音を首を大きく振って降りはらう。
自分で志望したんすから。負けないっす!
昔から根性とやる気だけは自信があった。もちろん空廻る事もあるのだけれど、それでも自分で決めた事は必ずやり遂げたいと思っている。
いつも通りのスタッフ用の入口を入る。病院の匂いは独特だ。そこからは、もはや周りの景色や匂いからはぐっと隔たれていると白波は思う。
でもどこかそれが特別な感じがして決して嫌いにはなれない。
自分のロッカーで制服に着替え終わると、いつもとは違う階段を登り、4階の一般病床へと向かう。そこからは更にいつもと違う雰囲気だ。
もちろん回復期病棟も忙しい、しかしその忙しさとはまた違う雰囲気がある。どこかピリピリとしていて、看護師さんたちの歩く速度もまた早い。

「おはようございます・・」

すれ違う金色に近い栗毛の看護師に白波はそう挨拶をする。一瞬自分の方を見て次の業務へと駆けていく。白波は目を細めて、やはりとんでもない所に来てしまった。と体が自然に固くなる。
そして、詰所を通り過ぎてしばらく歩くとリハビリスタッフ用のスタッフルーム・・・というには少し小さい休憩室がある。それでも居場所があるだけマシっすね・・・白波はそう思いつつ休憩室のドアの前で大きく息を吸う。
そこには例の先輩がいるのだ。そう思うと体は余計に固くなった。
決して悪い人ではないのだろう。白波はそう思う。
しかし、先人たちの意見によれば、

「一般病床には恐ろしい理学療法士がいる。経歴は不明だが異様に賢い」

「声を潜めて歩かなければ睨まれる。そしてカルテに不備があると大変な事になるらしい」

「回復期病棟の管理者が頭を下げているのを見た。」

「雑談をしているのは見た事がない。看護師や医師と対等に話している。」

「重症患者を好んでリハビリをしている。恐ろしい。」

そういった噂がまことしやかに囁かれている。
白波もまたこの一般病床に足を踏み入れる事は無かったため、その真偽はわからない。
だけどもやはりそう聞いてしまうとやはり怖い。
だけど・・・そのままではダメっす!どんな恐ろしい人でも同じ人間っす!
気持ちで負けたらダメっす!
そう心の中で何度もつぶやき、息を大きく吸い込むと白波はドアを思いっきり開けた。

「おはようございます!本日からお世話になる白波百合っす!誠心誠意努力いたしますので、ご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願いしますっす!」

気合いに任せて貼り上げられた声は、休憩室の中を反響しつつ駆け巡る。
白波が頭を上げると、呆気にとられて目を丸くしている山吹薫(やまぶきかおる)が其処には居た。
細く耳に掛かるか掛からないかまで伸びた透けるように細い栗色の髪は穏やかなウェーブを描いている。本当に男かと思うくらいに細い体、しかし決して華奢とも言えないその右手には、何処か古ぼけた黒猫のマグカップが握られている。そして、山吹は表情を見せない整った顔のままに、こほんと一度咳払いをした。

「とりあえずそんなに大きな声を出さなくても良い。」

文献に目を落としつつ山吹は静かにそう言った。デスクの上には山と積まれた文献が散乱している。白波の白い肌はきっと赤く染まる。

「すみませんでした!以後気をつけるっす!」

固く緊張したままに体を硬直させて放たれる白波の言葉は更に、休憩室へと響わたる。

「二度も言わせないように。大きな声は出さない事だ。皆が驚くだろう。」

気合いに満ちて風船のように大きくなった白波の気持ちは、しゅんとしぼんで小さくなる。
なんともとんでもない場所に来てしまった。

配属初日の朝一番で、白波百合の肩は地に落ちた。

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