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『居場所と持ち場のある街へ』大阪市生野区長“山口照美”さん

民間人校長(小学校)から教育委員会を経て、大阪市生野区長をなさっている山口照美さんにお話を伺いました。

プロフィール
出身地:兵庫県
活動地域:大阪府生野区
現在の職業及び活動経歴
昭和48 年8月3日兵庫県生まれ。同志社大学文学部卒。塾や予備校の国語教師や管理職を経て28 歳で起業し、企業や自治体の広報代行や企画・職員研修に関わる。「経済格差を教育格差にしない」をテーマに教育ジャーナリストとしても活動し、平成25 年4月より民間人校長として大阪市立敷津小学校校長を3年間務めた。大阪市教育委員会首席指導主事を経て、平成29年4月から生野区長に就任。2児の母。

発信し続けていく日々

記者:現在どのようなご活動をしていますか?
山口照美さん(以下、山口敬称略)
:区長は、1個の国くらい仕事があると言われます。大きくまとめると、『区政の運営』と、『将来に向けたまちづくり』です。まちづくりは、3~4年で入れ替わるような職員がやるのではなく、本来はまちの人たちがつくっていくものだと考えています。その中で、1つ方向性を示したり、生野区の現状をお伝えしたり、遠い視点で今やるべきことをやるのが区長の役目だと思っています。

みんなが安全、安心で暮らせるようにしたいです。生野区には、職員が300人以上いて、年金、労災、防犯、子育て支援など幅広く対応しています。滞りなく当たり前のことを当たり前にできるように、職員一同努めています。

記者:活動をする上で、大切にしていることは何ですか?
山口:
もともとは広報代行会社を経営していたこともあるのですが、発信しないと伝わらないので、こまめに発信をしています。ツイッターやインスタグラムなどもそうですが、子育て世代、小学生や中学生向けなどにも配布物を通して発信しています。また、広報紙にも連載をもっています。発信をして、啓発を諦めないことを大切にしています。

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記者:どうして発信を大切にしているのですか?
山口:思っていることも発信しないと伝わりません。私のキャリアスタートは、国語教師だったこともあり、言葉の力を信じています。自分の思い、目指している方向性、日々やるべきことなどを言語化することはとても大切です。恐れずに言語化する練習をしていかないと、思考が深まりません。書くことや話すことを通して、自分の考えを外に出していくことで、人から違う視点の意見を言ってもらえることもあります。自分の中に考えを留めていては、それ以上は深まりません。

子どもたちにも、自分の考えを言語化できる大人になって欲しいと思います。また、小学校の校長時代に出会った外国から来た子どもたちは、日本語がわからなくて苦しんでいます。その時にやらなければならないことが2つあります。1つ目は年相応の母語、つまりは思考するための言語を育てることです。2つ目は、みんなと伝えあうための日本語を習得することです。校長時代の経験から「多文化共生」に対する意識が強いので、生野区では日本語が苦手な人にも通じる『やさしい日本語』の取り組みをしています。

区長になった“きっかけ”とは・・

記者:小学校の校長、教育委員会を経て、区長になった“きっかけ”は何ですか?
山口:
公立小学校の校長を通して、見えてきた限界がありました。打ち手があると思って行った教育行政は、組織が大きすぎて、縦割り組織の中で何もできずにいた葛藤がありました。そこから区長という道を選びました。

大阪全体として経済的、身体的に支援が必要なご家庭が多いんですね。小学校の校長をしている時も、朝ご飯を食べなかったり、暑い時期なのに長袖を着て登校していたりする子どもたちがいました。その背景に、親が夜の仕事をしていて、朝ごはんの用意ができなかったり、学校への送り出しができなかったりなど、色々なケースがありました。

さまざまケースに遭遇する中で、親が一人で育てなくてもいい世の中にしたいと思うようになりました。校長をしていた時、自分の学校に来てくれたら、子どもたちには保護者を福祉的な支援につなげたり、チャンスを与えられたりできます。でも、大阪市には300校近い小学校があります。学校に当たり外れがあったら駄目だと思いました。

そんな時に、民間の力を教育委員会に入れたいという要請がありました。当時は校長3年目で、もう1年校長をやるつもりでした。職員室でどうしようかと悩んでいたところ、同僚たちからの「僕たちと一緒にやってきたことを大阪市に広げてください」という言葉に背中を押され、教育行政に踏み込みました。

記者:校長から教育行政に進み、どのような変化がありましたか?
山口:
教育委員会は、大きな組織で、その中でも縦割り組織です。さらに、教育と子育て支援、福祉は局も違うので一緒に動くことが難しい。やっと「こどもの貧困対策」などで一緒に取り組めるようになってきましたが、私の割り当てられた部署では動きづらかった。次第にミッションをもてなくなり、鬱にもなりかけました・・。居場所も、持ち場もなかった子ども時代を思い出していた1年でした。辞表を書きかけた時に、区長の公募に出会いました。

区長ならば、校長時代のように1つの学校だけではなく、生野区内19の小学校に広げることができます。区長になると、校長たちのサポートもできるし、教育委員会も話を聞いてくれると思いました。何より、虐待の予防など福祉ができることに可能性を感じました。居場所と持ち場のあるまちを目指したいと思って、公募に手を挙げました。年齢的にもキャリア的にも落ちると思っていたのですが、無事に通過し、今に至ります。

生野区が変われば、日本が変わる!

記者:どのような夢やビジョンをお持ちですか?
山口:
生野区は、課題最先端エリアなんですね。高齢化率は高く、一人暮らしの高齢者が多い。子どもが少なくなって1学年1クラスの学校が多く、学校再編で学校をクラス替えできる適正規模に変える必要性があります。年少人口は、大阪市でワースト3位です。また、生野区はオールドカマーと呼ばれる在日コリアンの方とまちを支えてきた歴史を持ち、一方でベトナムやネパールなどアジア圏の若者が急増しているという多文化共生の課題もあります。生野区に新しく移り住む人達も増えてきているので、昔からの人と新しい人達がどう共生していくかの課題もあります。

課題最先端エリアの生野区が解決策を見つけたら、他の自治体の役に立つモデルを提示できます。生野が変われば、日本が変わる!と思って、やるべきことをやっていきたいと考えています。これからの展望としては、このまちに責任をもちたいと思っています。任期の間にやりきれることはやって、組織に引き継ぎ、やり切れないことは立場を変えてやり続けたいです。これからも児童虐待問題や「経済格差を教育格差にしない」ための課題解決に取り組みながら、生野のまちに関わり続けたいと思っています。

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自殺を踏みとどまった背景には・・

記者:夢やビジョンを持ったきっかけは何ですか?
山口:
私は、自分を産んだ母親を知らないんですね。私を生んだ母親は、私が10カ月くらいの時に私を置いて、3つ上の姉を連れて出て行ったそうです。父親が帰ってきたら家財道具が一切なくなった家で、私が寝転んで泣いていたそうです。私は覚えていないのですが・・。

父親は、その後に再婚しました。その再婚した継母を親だと思っていました。小学2年生の時に、継母から「あなたは、本当の子じゃない」と言われました。そう言われた時から、自分の中に欠落感のようなものがあったんですね。

父親と継母が再婚して、下に妹ができて、小学3年生くらいまではちゃんとした家庭で良かったんです。やがて、父親が会社を潰して経済状況が悪くなり、夜逃げをしたことがありました。そこから、継母との関係が難しくなりました。逆鱗に触れると殴られ、常に妹と比較され、言葉の暴力で傷つけられ続けました。

自分に自信がないから人との距離感もわからない。それで友達関係に失敗して、イジメを受けていたこともありました。勉強もできなくて、中学時代には通知表に1とか2もありました。友達ともうまくいかない、勉強もできない、家庭環境も良くないから、「死んだほうがマシ」と自殺願望が常にありました。

現実から逃避できるのは、本の世界。当時よく読んだのは、難病とか戦争の本でした。自分より可哀想な人がいるから、自分はまだマシだと思うためだけに読んでいました。ひどい話ですが、それだけ心が貧しかったのだろうと思います。

記者:人生を支えてきた背景には、何があったのですか?
山口:
この人がいたから、私が死ななかったという人が1人います。継母の父親であり、私からしたら血が繋がっていない祖父です。祖父は、鳥取の田舎で農業をしていました。学校が夏休みの時などは、私たちは鳥取へよく行っていました。

祖父は、自分の可愛がっていた娘が、都会に出て、初婚なのに子持ちと結婚して、狭い村に戻って来づらいだろうと思ったそうです。祖父は、私を抱き抱えて、「俺の初孫じゃけ。可愛いだろう。」と言って、村中の家を回ったそうです。

私が、継母に怒られて泣いていると、祖父が必ずやって来て、「すまんな。俺が性格がきついから、あいつもきついだけぇ(きついんだ)。」「でも、俺はおまえがほんに可愛いだけ。初孫だけぇ。」と、鳥取弁でずっと言い続けてくれました。

鳥取から帰ると、学校にも、家にも居場所がない。親に甘えたことがないし、手を繋いでもらった記憶もない。ものをねだったりもしない。妹は天真爛漫に、すべてやってのける。その横にいて、生きている意味があまり感じられませんでした。

それでも、自殺を止めようと踏みとどまったのは、じいちゃんの存在でした。私が死んだら、じいちゃんが泣くなと。大好きなじいちゃんは、私が鳥取に行く時に橋のところで待っている。そのじいちゃんが泣くよなぁって思ったら死ねなかったですね。

“たった一人でも あなたがいてくれて嬉しい” と言葉にして言ってくれる人がいたら人は救われるし、生きていけると思います。自分も、誰かにとってそういう人になりたいと思って教育の世界に関わってきました。どんな子どもにも、よりどころになる大人や仲間がいる世の中になってほしい。自分の経験から、強く願っています。

記者:本日はお話ありがとうございました。

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編集後記
今回インタビューの記者を担当した田中、内澤です。校長、教育委員会、区長・・と役割を変えながら、人のために動き続けている在り方が本当に素晴らしいと思いました。区長という立場があるにも関わらず、ざっくばらんにお話いただき、境界線のないお人柄にも魅了されました。

たった一人でも「あなたがいて嬉しい」と言ってくれる人がいたら、人は生きていけるという話が印象的でした。自殺や殺人など尊厳を傷つけあうことが多い時代の中で、生野区から日本を変えていこうという志や人に寄り添う姿勢にたいへん刺激をもらいました。これからの時代の方向性について考えるきっかけをいただき、本当にありがとうございました。

この記事はリライズ・ニュースマガジン”美しい時代を創る人達”にも掲載されています。