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変わりゆくその先は

変化は嫌いじゃない。自分で起こすなら。
人によって起こされる変化は苦手。

あるはずのところにない、あるべきものがない、はパニックになる。
たとえば、「あれ、どこにあったっけ」と思い出したものを探す。ここに置いたよなーというところを見るだが、ない。じゃあ、こっちかな、こっちかな、あれれ、どこに置いたっけ。
徐々に不安がこみ上げてくる。
「ない!ない!ない!」「なんでないの!?」「私、ここに置いたもん!」
叫びながら涙が出てくる。

全然、今必要なものじゃない。
だが、「ない」ということに囚われて、そのもののことしか考えられなくなる。
徐々にヒステリー状態に陥り、動悸が激しくなる。
必要なものの場合はさらにひどくなり、部屋中のものを投げ散らかす。「ない」ということを受け入れられない。

おそらく社会不安障害の症状のひとつだと思う。

あるべきものは人とも言い替えられて、いるはずの人がいなくなることが苦手。だからシェアハウスは向いてない。
もちろん中には好きじゃなかったり、不安を感じるから早くいなくなって欲しい人もいる。そんなときはいなくなってほっとする。
でも、いることで安心する人もいて、特に安全な人や安心する人が去っていくのはショックだ。
だからといって、「いなきゃやだもん」と泣き叫ぶことはない。そこは一応大人なので。そして、その人にはその人の人生があるから、私の都合に合わせてもらえないのは仕方ないとわかっているから。

その半面、突発的に思いつきで行動する質。
「ああ、もう無理」とある日突然、国体前にテニス界から姿を消したり。「行きたい」と思った翌日、ふらりと旅に出たり。「捨てよう」と思った瞬間、捨てられずにいた思い出の品々をゴミ捨て場に運んだり。
さすがに親兄弟を捨てるのは、思いついてから完了まで半年かかった。だが、捨てた。自分がしたいことだったから。

うちの家主を見ていて、最近、「この人は破壊者だ」と思った。
たくさんいろんなことに手を出して、いろんなものを作り上げて、作ることが生業だったりもするけれど、本質は破壊にあり。私個人の意見。
価値観だったり、風習だったり、固定観念だったりを壊したい人。否、壊す人。「したい」と欲しているだけでなく、実際に行動している。

壊すことは悪いことではなく、壊さないと作れないから、壊すことには意味がある。
あたらしいものがいいとは思わない。古いものが悪しきものだとも思わない。
たぶん家主も同じように考えていて、新旧に関係なく「変えたい」と思うものを破壊しているように見える。あくまで私個人の見解。

その昔、いなフリ中に「あなたが好きになれない」と告げたら「だって俺たち似てるもん」「ですよねー」ってなったのだが、そのとき思っていた似ている部分は付き合ううちに似ているのかわからなくなった。
破滅的、不遜、リアリスト、冷徹。
そもそも冷たくないし、私よりずっと優しくて親切。
リアリストだけど、ばかみたいにロマンチストなところもある。
不遜なのは仕方ない。だってデキるんだもの。
破滅的だけど、私みたいに向こう見ずではない。ぎりぎりを見極めてる。

今は、破壊者なところが似ているのかもしれないと思う。
人の起こす変化にも対応できているように見えるけれど、その前に手を打っって自ら変化を起こしている。その変化を起こす規模が、私とは比べものにならないくらい大きいから別物に感じられるけれど。

そして破壊だけでなく構築もするから、正確には私とは似て非なるもの。
きっとこの先もスクラップアンドビルドし続けるのだろう。

家主は来年夏にはここを去る。
私の苦手な、人によって起こる変化。
家主を見習い、変化の前に先手を打って自ら変化を起こすか。もしくは呆然と変化の波にのみ込まれるか。

少なくともパニックを起こさないための準備はしておくべきか。


ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす