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死について考える【55日目】

どんな命でも尊いけれど、嫌われている命もある。

例えば、蚊。人間をもっとも死に陥れている生物だ。

人間を、我々を殺す生き物なのだから嫌われて当然とも考える。実際、私は嫌いだ。夏に蚊に刺されるのはとても腹が立つ。

それを愛でている人も中にはいるかもしれない。蚊の実験をやっていて蚊に愛着が湧いてしまった、爬虫類のための餌として育てていたけれど愛着が湧いてしまった、など。よく漫画で見る、奴隷に恋をしたような、王子様が平民の貧乏の少女に恋をしたような、そういう立場が矛盾している状態。

そういう人たちにとってはそれは嫌う存在ではなかったりする。

他には、例えば、独裁政権者。

独裁されている側からすると嫌う存在であるが、同じ仲間として独裁する側にいたらどうだろうか。嫌う存在などではないはずだ。

中にはその体制に疑問を持って、内部告発のような、スパイのような者もいるかもしれない。そうした者はきっとそれを嫌うだろう。

このように、ひとつの命にしても、必ずしも大切と言い切れないのではないだろうかと。嫌われている命は滅したくなるものだ。逆に好まれる命は大切にすべきと考えるだろう。それは結局主観であって、命が大切ということは客観的に見れば当り前なのだ。

当り前というのも人間が考える当り前であり、人間一般の常識の範囲内である。結局はある意味主観なのであるが。

人間が定義したに過ぎない。すべてが。そうなると、命とは何なのかと。地球にとって、宇宙にとって、神にとって、命とは何なのかと。

命は少なからず進化している。成長している。長い年月で眺めるとそうだ。つまり、宇宙のその先に、神が待つその場所へ、何かをもたらすために存在しているのかもしれない。

そうでなかったとしたら、高度なロボットなだけかもしれない。つまり、命は生命ではなく、単なる物質、細胞の集まりに過ぎないのだ。

私はかなり前から、この人間は細胞の塊という考えをもっている。この考えのおかげで、足をすくわれたり、逆に、助けられたりとあったのだが、今日は語るに時間がない。

この私の命は、死ぬということを考える上では最重要であり、大切以外の何ものでもないが、しかし、実際は、それほどのものではないのかもしれないということだ。つまり、死ぬことを考えるのもそれほどのことではないのかもしれない。

長い年月で考え、宇宙規模で見ると人間が、私が小さすぎる。そこへフォーカスする必要はあるのかと甚だ疑問だ。

しかし、フォーカスしなくてはならないだろう。たとえ、客観視的に小さくても、今私が見ているこの世界は、すべて主観であり、”私”が見ている空間、世界、なのだ。そして、この世界は私が見えているものしか見えない。つまり、私が中心にいて、私が一番大きいものと考えるのが妥当だろう。

これまた話が長くなりそうな話題だが、時間だ。失礼。

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