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死について考える【30日目】

死後の世界というのはあるかもしれませんね。

意識だけ異なる世界線にあるような。この地球へは自由に出入りできるような。平行世界もありそうですね。平行世界よりも異世界の方が近いかもしれません。霊界かもしれません。スッとこちらへ入ってきて、干渉してくる。そして、スッと消えていく。消えていけばいいのですが、消えないものもいるかもしれません。

死後、そういう世界へ行くかもしれないと、そして、何らかの条件でこちらの世界に干渉できると。そうなると、意識というのはそれこそ、不老不死なのではなかろうかと。

今の肉体はただ、この地球で住むためだけに与えられたものであり、つまり、ゲームでいうところのキャラクターなわけであり、実際は意識が操作している。操作も乗り移りのような形で進行している。ゲームであれば、コントローラーなどから操作するわけだが、現実は、乗り移りなのだろう。

そして、死ぬと、肉体が朽ちると、その意識は天へと、異世界へと飛んでいく。そこが天国か地獄か、はたまた、無の世界か、宇宙の果てか、神の世界か、それはわからないけれど、どこかへ旅立つのだ。通常は。意識がそこへ行かないものだけ、地縛霊のような形で残るのかもしれない。どれだけ、この世に未練があるのかわからないが、そういうことにはなりたくない。行けるものならいろんなところへ行ってみたいものだ。

そうなると、この今の意識、今後も使うのではなかろうか。ということは、今、この時に、この意識を、どうしていけばいいのか。成長させていけばいいのか。どう成長させていこうか。いろんな体験をさせた方がいいのではなかろうか。

何だか親のような気持ちになってくる。意識が別のものと思うと。それは私が育てなくてはならないものなのだ。

私の意識はまだ未熟だと思う。これからどう育てようか。将来どうなってほしいか。自分の子どものように大切に育てたいわけだ。大切にしすぎてもダメだと思うので、それなりの体験はさせてあげたい。自分を育てるということは、実は自分が親になるということなのかもしれない。自分を客観視して、三人称目線でみて、どう育てていくのか外側から検討していく。今の自分には何が足りず、これがあったらもっといいというのが見えやすくなる。自分のことが自分のことじゃないように感じてくる。いや、実際の親だと逆なのか?子どものことが自分のことのように感じるというのが親心なのか?でも、今、私が持っている感情は他人の感情に近い。ゲームキャラクターを育てるのに近い。人生というゲームに難なくクリアするには。クリアはないかもしれないけれど、ゲームをやるならば、さくさく進むようにするのは定石。そのようにするのはどうしたらいいのかを、今後考えていく必要がありそうだ。

死んだ後もあると考えるとこういう考えに至るとは。何だか不思議だが、もしかしたら、年齢の高い人たちは、もうすでにその境地にいるのかもしれない。それだから、次の世代を育てていけるのかもしれない。そう言われると納得だが、これが科学的なものかと聞かれたら、それはYESとは言えないだろう。

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