死について考える Part.19

死について考えることがなくなっても、しばらくは考えることにしたので、無理やり考えていく。

今日のお題は、もし明日死ぬとしたら、にしましょうか。

今日寝て起きたら朝7時。仕事は放棄しますね。家族へまず報告します。おそらく、家族とずっと話して過ごすかな。特に外へは出ないかも。いや、出るな。近所を散歩しに行くかな。懐かしの小学校や中学校を見て回って。可能であれば、友だちと連絡取って。通勤で使ってた路線、最寄り駅なんか見に行ったりして。馴染みの場所を巡り歩いたら、3時間もあれば済みそうかな。そしたら、美味しい物でも、といってもいつも通りのご飯を食べて。ランニングでもして気を散らして。好きなゲームを1時間~2時間くらいやって。夕方くらいにはお風呂に入ってサッパリして。部屋を名残おしそうに見回して。夕日もみたいな。あとは、好きだったYouTubeの動画を見て。また家族とゆっくり話しながら安らかに眠るんだ。

考えただけで何か涙腺にウルっと来た。

でも、どこかに行って思いっきりはしゃぐとかじゃなくて、お金を散財するとかじゃなくて、そういう普通の、いつもの日常を享受したい。今もしてるけど、それを改めて感じて、いつもどおりを過ごして、周りに感謝して、それで逝きたい。死ぬ前っていうのは、そういう和やかな日常を暮らしたいんだよな。

何かをしてやろうとか、そういう野望はない。今の日常を歩いていれば必ず手に入れられる瞬間。この日常を崩さないことが今できる、今やるべき最高のことかもしれない。

現状を打破しようと、今のままではダメだと考えていたけれど、今こそが最高の時であり、今を生きることが一番大切なのではないだろうかと。

無理をして上を目指す必要はないのではないだろうかと。そう思うんです。

でも、心の奥底で、このままでいいのかと。そうつぶやく自分もいる。

今まさに、この葛藤と戦っている。そういう苦しい時期なのではないだろうか。より良い生活は求めてはいないけど、例えば、同窓会で自慢してやりたいくらいは思うものです。

昔、皮肉で、金持ちが老後に地方で静かな暮らしをするストーリーがありました。しかし、地方に住んでいる人は金持ちが必死に頑張っている時もそれを実現して、さらに、老後もずっと継続しているのです。都会で暮らしてて、老後は地方でという人、最初から地方で住んではいけないのだろうか。そういうことです。

上を目指す理由。それがわからなくなってくる。なぜ今もっと上を目指して葛藤しているのか。上を目指すことで何が得られるのか。もちろん、得られるものは多いでしょう。しかし、それが果たして、今の幸せな日常を捨ててまで実現することなのだろうか。

確かに刺激が足りないという感覚はある。明日死ぬとしたら、でもその刺激は捨てると思う。むしろいらない。そう、明日死ぬとしたらという考えはあまり良くないのかもしれない。

100年生きるということを前提で考える方へシフトしていったほうがいいか。そうなると、100年も生きるのなら、もっと上を目指して、老後も何不自由なく暮らせるように、マイナスを回避するために、そのために目指す。というのもひとつの手法か。そもそも、生きているだけでマイナスになっていくこの時代が悪い気もするが。時代をよくするために貢献するのもひとつの手ではないだろうか。私はあと10年もすれば、困らない、そんな甘い世の中にすべく、私はこの10年頑張る。これはいい。実にいい。

10年頑張れば、甘い世の中が待っていると考えればやる気も出てくるものだ。やる気なぞに頼っている時点でダメなのだが。

そう、モチベーションはクソである。モチベーションに頼るようなやつはクソである。これは私が聞いた素晴らしい名言の1つである。

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