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死について考える【77日目】

大自然の映像を見ていると自分のちっぽけさや命の儚さを改めて感じますよね。

幾度となる火山の噴火が過去にはあったり、他の国では噴火はよくあって、噴火すると20キロ圏内は火山灰で真っ黒になるとか。火山灰で済めばいいけれど、噴石にやられてしまうだとか。他にも日本だと地震もあり、津波もあり、台風もあり、土砂崩れもある。雷に当たって死ぬこともあるんじゃないかと。宝くじの一等に当たる確率くらいだと言うけれども。

人間が地球で生きていること自体が奇跡なわけで、そういう奇跡みたいな確率なんておそらく明日起きてもおかしくないと思う。それは確率がどんなに低かろうと、起きる時は起きる。それは必然的なものなのだ。何かしらに合う確率はただ人間が定めた数字に過ぎず、現実はそれ以上に確実に必然的にやってくる。それを人々は運命を言う。

素晴らしい運命もあれば、悲しい運命もある。死もその運命のひとつ。100歳で死ぬのか、明日死ぬのか。どちらが確率的にとかではなく、どちらかが起きて、それは運命という道筋の終着点なのだ。人生におけるどんなできごとも運命によって決められたものであって、必然的にやってくるものだ。それをどう捉えるかが人生において大切なのではなかろうか。

運命は変えられるという話はあるが、その変えた先もまた運命。というよりは、その変えた先こそがあなたの運命なのだろう。変えるという動作ひとつも運命に組み込まれた通過地点に過ぎない。変えないという運命は最初からなかったのだ。

パラレルワールド、平行世界があるという話もよくある。それは選択が違った場合の人生の世界だ。しかし、想像にすぎないだろう。先程の運命は変えられるというものの、例えば、変えるような行動をしなかった世界。事後になって、そういう世界もあったんだと気づくわけだが、それはあくまで想像の世界であって。もちろん、パラレルワールドという、平行世界として認知されるが、それは本当に存在するかと言われると存在しないだろう。もし、平行世界があったとしたら、仮にもしあったとしたら、存在するが、例えば、地球がない世界も存在するわけだ。

地球が、人間が存在しているのさえ、奇跡的なのに、その上で、自分が生まれるということも奇跡なのに、それが現時点でもうひとつの世界にあって、自分の選択で違う世界が生まれるとしたら、本当に世界は2つだけなのかと言われたらそんなことは絶対にない。自分の選択だけでなく、他人の選択でも分岐するから。それが人間それぞれに同時に起きたとしたら、人間の数だけ、毎秒世界が増えて行くことになる。それだけじゃなく、動物全部、地球ができるできないも含めたら、惑星全部だ。それが毎秒その数分世界が増えていく。そんな平行世界はあり得るのだろうかと。そもそも、秒というのも人間が決めたわけであって、ミリ秒だっていいわけだ。

そう考えていくと、平行世界というのはないに等しいだろう。宇宙がそれだけ多く存在したら、どこに格納されるのか想像を絶する。

つまり、今生きている世界が本当の世界であって、他の世界はないわけで、選択肢で選んでいない方の世界はないわけで、すべての選択は運命なのだ。

結局は人間が生きる先というのは、その人が生きる先というのは決まっている。それに対して、どう感情をもって、どう考えをもって対応していくかのほうが大切なのだろう。

そうやって、考えるのもまた運命だったりするわけだが。

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