死について考える【93日目】
お盆ですから。お墓について考えると。
私は海にでもばらまかれたいですね。骨は。それでも、きっとお墓に埋められることになるんでしょうけども、半分くらい海にとかできないのかな、なんて。
なぜ海かというと、広いから、って単純な理由と、静かで穏やかで冷たい、涼しいから、ですかね。お墓は窮屈そうであまり好き好みませんね。死んだ後に体験するわけではないと思いますが、イメージ的にはそうなります。
宇宙に流されるのも面白いかもしれません。未知との遭遇があるかもしれませんから。そうなると三等分ですかね。
そもそも、お墓に埋まる時に、そういう自由が言えるような状態でなくてはならないのです。家族のいないまま死んでしまえばそういうわけには行かないだろうし、遺書にそういうこと、もしくは、遺言で誰かに言っておかないと、実現できないわけです。
言う相手がいるのかどうか。それが家族なのか、施設の相手なのか。それだけのお金はあるのか。実現できるお金は用意できるのか。そういうことまで考慮すると、死ぬまでの仮定が大切なのだろうと。
死ぬまでにどういう人生を送ったかでそういうのが決まるのであれば、どういう人生を送るかをよく考えておく必要がある。考えるだけでなく、行動に移すのが一番大切なのだ。行動に移すというのは難しかったり、簡単だったりする。その一歩さえ出てしまえば、あとはどうにでもなるものだが、その一歩が難しい。なぜこうも難しいのか。
これはまた別に色々と調べてみるとしよう。
しかし、これで思うのは、いくらこうやって議論しても、考えても何も変わらないということ。いくら死について考えることでポジティブになるとはいえ、何もしていなければ、行動していなければ、意味を成さないのだ。私はこの記事を出すということ、ということでは、行動しているが、それは目的ではないので、行動のうちに含めず、これをバネに他のことをしているかというのが重要なわけで、それはまったくしていないのだから、何もしていないのと同じであり、怠惰なのだろう。
いくら考えを変えても、いくら良いアイデアを持っていたとしても、それを世に出すほどの行動をしなければ、無意味なのだ。無価値なのだ。価値のない人間なのだ。
価値あることをするには、価値を考えずに、価値がなくとも、何かをやるということが価値のあることなのだ。なんだか矛盾しているような、錯覚を見ているような、複雑な状況だが、そうなのだろう。
行動そのものに価値がある。それが真理だ。
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