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カオス・領土・芸術 ドゥルーズと大地のフレーミング/エリザベス・グロス

"芸術は動物に由来する"。

"あらゆる芸術は動物とともにはじまるのであり……”。

こんな言葉とともに、芸術とは何かということが、ダーウィンの進化論的な視点やユクスキュルの環世界の視点から考察されたりする。もちろん、サブタイトルにあるとおり、もっとも参照されるのはドゥルーズ(とガタリ)の思想である。

オーストラリア出身の哲学者エリザベス・グロスによる『カオス・領土・芸術 ドゥルーズと大地のフレーミング』はそんな一冊だ。

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カオスと芸術

グロスは、芸術を、科学や哲学と同じように、人間がカオス(宇宙であり、自然であり、大地である)のなかから、強度化、組織化された領土となるものを抽出するための1つの方法として捉えている。

カオスのうえを行く双子の筏である哲学と芸術は、より真面目な姉妹である科学とともに、何か共立するもの、合成=創作されたもの、内在的なものを抽出するために、それぞれの仕方で、カオスを枠づけるのであり、そしてカオスは、それら抽出されたものを、みずからを秩序づけるための(そして攪乱しもする)資源として利用するのである。

また、ドゥルーズとガタリを参照しながら、こんな風にも哲学、科学、芸術とカオスの関係は語られる。

ドゥルーズとガタリがいうように、哲学が何よりもまず、概念の創造、精緻化、展開へと向けられているとすれば、科学は何よりもまず、ファンクション(「関数」、公式、アルゴリズム)を展開するものであり、それはカオスに対処しカオスを変換するためなのである。そして芸術は、カオスに応答したりカオスによって汚染されたりする仕方として、変様態と被知覚態を精緻化し、生産し、強度化する。

哲学はカオスから概念を抽出するが、芸術はカオスから感覚を抽出する。
しかし、その抽出された感覚は、抽出した主体の側にあるわけでも、逆に抽出の対象にあるわけでもなく、「主体にも、対象にも、それらの関係にも還元することのできないものとみな」される。

感覚とは、芸術が、質の抽出を通して、カオスから形づくるものなのである。

ベルクソンやラトゥールを想起

カオスから芸術によって抽出されたものから形づくられる感覚が、主体にも対象にもその関係性にも属さないというこのあたりの論述は、アンリ・ベルクソン的だなと思っていたら、ちゃんとベルクソンとの関係も語られていたりする。

ベルクソンが喚起しているように、私たちは、対象をそれらがある場所、すなわち空間のなかで知覚し、出来事をそれらがある場所、すなわち過去のなかで想起するのであって、空間と時間が私たちのなかにあるのではない。まさにそれと同じく、感覚もまた私たちのなかにはない。私たちが感覚するときにはいつでも、私たちは感覚のなかにいるのであり、感覚は、私たちを、感覚が生起する場所すなわち芸術作品そのものへと連れていくいく。

この場所や時間あるいはそれらに対する感覚が人間のなかにあるのではなく、逆に、人間がそれらの場所に行くのだという考えは、ラトゥールの『地球に降り立つ』も思い出させてくれる。

僕らは宇宙空間からみた丸い地球像という住処とは直感しづらいものや、右だとか左だとか概念的な世界に住んでいるのではない。僕らは地表からせいぜい数キロメートルの薄い膜のなかで生きているのだというのが、ラトゥールの主張するところだった。自然と文化の分離という近代が前提としてきたものを疑ったのもラトゥールだ。

そうした大地や自然と人間が切り離せないものであるという感覚をグロスは共有しているように思う。

芸術は人類の創造性にではなく、自然の過分性、感覚的なものを不必要なまでに豊かにする大地の能力、鳥の求愛の歌やダンス、青空の下でそよ風に揺れる野原のやり、これらのものに根づいている。芸術は、自然的なもの、動物的なものに根づいている。すなわち人間が動物から受けついだ進化的残滓のなかで、もっとも原始的で性化されたものに根づいているのである。

ラトゥール的にいえば、この本で語られる芸術は「地球に降り立った」ものだといえる。

性淘汰と芸術

「芸術は動物に由来する」と語るグロスは、芸術をダーウィンの性淘汰と結びつける。

ダーウィンが語った進化のドライバーのうちでも自然淘汰のほうにではなく、性淘汰のほうに結びつくのが芸術だというのだ。

性的に優位に立つための選択は、ときに自然淘汰的な面ではリスクを背負うこともあるほど、パフォーマンス的なほうに振れる。

このかぎりにおいて、建築や、建築にひきつづくあらゆる芸術は、鳥のさえずり、昆虫の嗅覚のダンス、そして人間を含む脊椎動物のパフォーマンス的な誇示に結びついている。これらはそれぞれ、ひとつの領土、ひとつの性化された領土の構成であり、そこにおいて性的誘惑を実行し、性的満足を抽出し、性的力を強度化することができるような、自分自身に固有の空間の構成なのである。

これに続くグロスの論に共感するのは、こうした性淘汰的な面をもつ芸術が、ドゥルーズらのいう領土化の働きであると同時に、領土を破壊する脱領土化の活動も兼ねているというところだ。芸術は、創造と破壊の両面をもつ。

しかしおそらくより重要なのは、領土の構成とは、そこにおいて感覚が創発しうるような空間の、そしてそこからリズム、トーン、色づけ、重さ、肌理が抽出され、他のところへと移行し、それら自身のために機能し、強度のためだけに共振しうるような空間の製作であることである。同様に芸術の始原的な衝動が、自然的世界と人間的世界の両方における領土の創造であるかぎりにおいて、芸術はまた、破壊と歪曲の衝動をもつことができる。この衝動は、領土を破壊し、領土を、それが一時的にひき離されてきたカオスへと送り返すことができる。

カオスを枠づける(フレーミング)芸術は、同時に、領土化されたものを脱フレーミングするものでもある。

フレーミングは、自然を性化することで生命を可能にする原理そのものである。

大地は、無限に分け隔てられ、領土化され、フレーミングされうる。しかし大地が何らかの仕方で境界確定されないかぎり、自然そのものは、生命を性化すること、魅惑的なものにすること、つまりたんなる生存以上のものへとひきあげることができない。フレーミングとは、カオスが領土へと生成する仕方である。フレーミングとは、それによって対象が境界づけられ、質が解放され、芸術が可能になる方法である。

ここでも大地が関係している。いや、あらゆるところに生命が寄って立つ大地はあり、生命によってさまざまなフレームへと分割させる。「フレームとは、大地というカオスから領土を打ちたてるもの」であり、ゆえにフレーミングすることは芸術的な「合成=創作平面の最初の構築であり、端緒」なのだ。

そして、生命そのものの営みと関係している。きわめてダーウィン的に。

フレーミングによる枠づけは、生命を性化することを可能にし、性淘汰を可能にするものだ。フレーミングによって質が生まれる。

過剰で、予測不可能なもののなかで

このフレーミングを行い、その枠づける作業を通じて生まれる領土と自身の身体を結びつけることで感覚を生じさせるのが動物である。

ゆえに芸術は動物からはじまる。

あらゆる芸術は動物とともにはじまるのであり、それというのも、機械でも心でも主体でもなく、動物こそが領土と身体を同時に形づくるからである。心や機械や主体は、それ自体が、このような身体と環境のカップリングの芸術的な生産物なのである。芸術とは、心的に捉えられようが精神的に捉えられようが、「高次の」存在の達成ではなく、古い動物的先史時代のもっとも原始的で基本的な断片の精緻化である。

芸術は、理性や認識、知性など、人間に特有な性質や能力から生じるのではない。それは「古い動物的先史時代のもっとも原始的で基本的な断片」から生じる。それは「過剰で、予測不可能で、進化の程度が低いものから出現する」。

私たちのなかでもっとも芸術的なものは、もっとも愚鈍な=動物的なものである。

過剰ゆえに、予測もコントロールもできないようなものから芸術は生じる。

すこし前に紹介した國分功一郎さんのいう中動態的な動詞が芸術的な創作にはあっている。それは自身がそれに巻き込まれるような行動である。

過剰で、予測不可能なものに巻き込まれた状態のなかで、感覚を生みだすような合成=創作平面という領土の切り出しを行うこと。それは『発達障害当事者研究』で語られていた「まとめあげる」話とつながっている。

その本で、アスペルガー症候群の当事者である著者の綾屋紗月さんが次のように語っていた、情報のまとめあげこそが、芸術が創造される合成=創作平面上での過剰で、予測不可能な動きなのだろうなと思う。

一般的にはおそらく、数多くの身体感覚をすぐに絞り込み、「おなかがすいている」というひとつの自己紹介としてパッとまとめあげ身体内部の情報の数を減らすため、身体外部の情報とのすりあわせが容易になっていると考えられる。しかし私には、人びとがこんなにたくさんあるはずの身体感覚を容易に絞り込み、ひとつにまとめあげていることのほうが不思議に思われる。人びとの「おなかがすいた」へのまとめあげは、たしかにスピードは速いが、実はとても大雑把で……うっかりしていることの裏返しではないだろうか。

芸術と脱領土化

人は生きるためには、日々情報をまとめあげていかなくてはならないし、と同時に、混乱しないためにはそのまとめあげの作業を適度に大雑把にしてサボったり手抜きをしていかなくてはならない。過剰さや予測不可能性に巻き込まれてパニックにならないためにも、ある程度は既存のフレームを活用して、その都度、フレーミングすることをうまく避けていく必要がある。

フレームや境界がなければ領土は存在しえないし、領土がなければ、対象や事物は存在できても、表現的なものへと生成しうるような、そして生ける身体を強度化し変容させうるような質は存在しえない。

しかし、その領土を脱領土化して、過剰や予測不可能性を導きいれるのが芸術である。それは日常的に安定した精神をパニックを誘引するような混乱へと誘い込む。

ゆえに、芸術は性淘汰が抱え込むのと同様のリスクをみずからひきうけているのだといえる。

建築と同じく芸術は領土化の運動であるだけではない。すなわち身体をその必要性と利害にしたがって宇宙そのもののカオスへと結びつける運動であるだけではない。それはまた、逆の運動、脱領土化の運動でもある。すなわちカオスに再び触れるために、領土を切り開き、囲いやパフォーマンスからなるシステムを解体し、領土を横断する運動でもある。この運動によって、荒れ狂った、非システム的な何か、カオティックな外部の何かが、身体において、身体を通して、そして身体に衝撃を与える作品や出来事を通して、自分自身を再び主張し、とりもどすことができるようになる。

ドゥルーズとガタリの書くものがわかりにくいのは、この芸術と同様の領土化以前あるいは脱領土化以降の状態を描いているからだろう。

だからこそ、それはわかりづらくはあると同時に魅惑的なものなのだと思う。

この本は、ドゥルーズとガタリの本に魅了されつつ、なかなか読了できない僕でも、読み切ることができたドゥルーズ、ガタリの入門書とみることもできる。



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