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静かに待ち、愛を持ち続ける

そんなことは物理学的に生じる可能性はかなり低いんだろうけど、たとえばの話で、もし仮に、何十日も継続する大地震があったらどうだろうか。
建物や道路も破壊されるような規模の地震が週に何度か起きるような状況が起きてしまう状況に置かれてしまったらどうだろうか。

生々しすぎて良くないので、イメージを変えると、ゴジラが出現するでも、メガトロンがデストロン軍を率いて地球を襲うでもよい。
ようは人間の力ではどうしようもないような禍に見舞われたとき、どういう態度が正しいのだろうかと考えさせられる。

人智を越えた力を前に一般人ができること

すくなくとも、問題のほんの一部しか解決せず、根本的な問題解決にはまったく寄与しないどころか、別の厄介な問題を引き起こしてしまうような正論を唱えたり、その考えに基づいてそれに反する他人を非難したりというのは、正しい態度ではないだろう。
問題はすこしも解決しないどころか、精神的にも社会生活や機能的にも別の打撃を与えるだけで、状況を悪化させるだけだろうから。

残念ながらゴジラやデストロン軍に対して、一般の人々が根本的な解決のためにできることはない。

僕らがやるべきことは、自分たちの身を守る確率を上げることだし、まわりの人たちも同じように身を守れるように配慮したり、ゴジラやデストロン軍の攻撃以外の理由で精神的にも肉体的にも傷ついたりすることがないように、互いにどうすればよいかを考えて行動することなのだろう。

この最後の部分を同時に満たすことがとにかく大事だ。
自分たちやまわりの人の安全性を守るための行動が、同時にほかの形でほかの人々を傷つけ攻撃するようなことにつながってはいけないように配慮することだ。

人智を越えた災害が降りかかる時は、正しいか正しくないかを通常の判断基準自体が壊れてしまう。それゆえに何が正しいかの議論は容易に対立を生みやすくなる。
この対立が生む二次災害の方こそ、人間自身がどうにかできることなのだから、ゴジラやデストロン軍と戦おうとするより、無意味な対立を生じないようにすることにこそ集中した方が良いはず。
正しさの主張をいったん諦める必要がある

境界の外からの脅威の原因を限界ある人間の思考で見誤らないように

歴史学者のカルロ・ギンズブルグの書いた『闇の歴史』という本があるが、そこにこんな話が書かれている。

1347年9月末、コンスタンティノープルからやってきた12隻のジェノヴァのガレー船が、メッシーナに入港した。船倉に積み重ねられた積み荷の間には、ペスト菌を持つネズミがいた。約6世紀の期間を経て、再び西欧に大災害がもどってきた。疫病はシチリアから急速に拡大広まり、ヨーロッパ大陸のほとんど全域を襲った。ヨーロッパ社会をこれほど根底から覆した事件は数少なかった。
当時、様々な場所で、疫病の原因をユダヤ人に帰そうとした事実は、よく知られている。またこうした告発と、ほぼ30年前にハンセン病患者やユダヤ人になされた告発が類似していることも周知のことである。だがこの場合も、迫害の地域図に年代順を分析的に再構成するだけで、下部の圧力と上部の介入がからみあって、疫病の犯人をユダヤ人に求めた過程が明らかになるのである。

当時、原因などわからなかった疫病の原因――つまり人智を越えた力の原因――を、自分たちがわかりやすい敵のせいにしてしまうことで何か正義を実行しているつもりなって現実の疫病の恐怖から目を背けるのかもしれない。当然ながらユダヤ人をいくらどうしようとペストがおさまるはずはないし、ユダヤ人の側からしたらいわれのない迫害を受けているだけだ。

ギンズブルグは「こうした話のすべてに、キリスト教世界の境界外にのしかかる、未知の脅威に満ちた世界がかき立てる恐怖がかい間見られる。不安をかき立てたり、理解し難い出来事はすべて、不信仰者の陰謀に帰せられた」と書いているが、このキリスト教者たちのまったく根拠のない正論の結果によってもたらされたのは、ただただ無益なユダヤ人の不幸だけだ。

ただこの時期の細目が不明であるにせよ、一連の資料の総合的意味は明らかだと思える。迫害の対象が、比較的限られた社会グループ(ハンセン病患者)から、人種的宗教的限定はあるにせよ、より広範なグループに移行し(ユダヤ人)、最後には、潜在的には限界のない宗派に移行するのである(魔女や魔術師)。ハンセン病患者やユダヤ人と同様に、魔女や魔術師も共同体の外縁に位置する。彼らの陰謀もやはり外部の敵から吹きこまれたものだ――この上ない敵、つまり悪魔である。

人間の力を越えた危機が訪れた場合に、こんな風に明らかに人間が原因の二次災害を起こさないためにも、これが正しいなんていう正論はないのだということを自覚する必要があるのだろう。

人間の力を越えてものを前にして、人間的な正論は通用しなくなる

それはこれからAIが脅威になってくる際にも同様なのだろう。『LIFE3.0』でマックス・テグマークが書いていたように、「いつか人間レベルのAGIを作ることに成功したら、知能爆発が起こって我々は大きく後れを取る」のだから。

人間の力を越えているものの影響から逃れようとする際に、人間同士が人間の限界の範囲内でしかない正論を戦わせても、まったく正しい結果など得られないだろう。

ひとたび超知能AIが別の恒星系や銀河へ入植すれば、そこに人間を送り届けるのはたやすい――ただし、そのような目標を持ったAIを作ることができればの話だが。人間に関するすべての情報を光速で送信し、AIがクォークや電子を組み合わせて目的の人間を作ればいい。その方法としてはまず、1人の人間のDNAを記述するのに必要な2ギガバイトの情報を送信して、培養した赤ん坊をAIが育てると言う、比較的低レベルのテクノロジーを使うやり方。もうひとつは、AIがナノテクノロジーを使ってクオークと電子から成人の人間を作り、地球でスキャンした下の人間の記憶をそれに植え込むという方法も考えられる。

なんていう可能性を生じさせる人間の力を越えたものを前にしたとき、人間同士がいままでの正義を人間間で振りかざしていても、良いことも悪いこともまったく人間の予想外のところからやってきて、それどころではなくなるだろう。

そういう非日常が口を開いたとき、人間の正義や正論の限界は明らかになる。
「僕らにはできることはない」とちゃんと諦める部分をもつこともとても大事なことではないかと思う。何かができると勘違いして、何の効果もないのに他者を傷つけたりしないためにも。

GOODよりも、GODを。

そうなると、むしろ神を信じて、隣人を愛することだったり、諸行無常、色即是空と悟りを開いて、静かに時を時を過ごすことではないかと思ったりする。

僕らにいま正しいことなんてできない。
もちろん、できることもあって、それをやることはもちろん良いことなのだけれど、すくなくともできない部分もあるのだということの自覚は必要だろう。

通常時のように正しさ、GOODを求めすぎではいけない。
人間に不可能なGOODを求めて、それができないことをきっかけに、その要因を誰かのせいにしてしまうことだけは絶対に避けなくてはならない。それが二次災害、三次災害のきっかけになってしまうこともあるのだから。
GODの領域とGOODの領域を分けて考えないといけないのだろう。

だから、ここで書いたことも正しくなんてないかもしれないし、実際どうすればよいかなんてぜんぜんわからない。

だから、本当に何が正しいとかも決めることはできないし、それを求めることさえいまは違うのかもと思っている。
せめて静かに待ち続けることと、他人や社会全体への愛を持ち続けることくらいではないか。

冷静に、冷静に。


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