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正義の固定が正しさを奪う

ヨーロッパにおける移民の問題を取り扱って話題になった本、ダグラス・マレーの『西洋の自死』を読みながら、差別を避けるために多様性を肯定しようとする姿勢そのものがまた別の差別を生んでしまうというむずかしさを目の前にして、考えさせられている。

多様性がまた別の差別を生むというのは、たとえば、こんな例だ。

英国に住むシク教徒と白人の労働者階級の間で何年も語られてきた噂話に、ついにメディアの取材が入ったのは2000年代前半のことだった。それにより、イングランド北部一帯の町で北アフリカやパキスタン出身のイスラム教徒たちが多くの未成年の少女に組織的なグルーミング(性的行為を目的に青少年と親しくなること)を行っていたことが明らかになった。どのケースでも地元警察は怖気を震って捜査に乗り出せずにいたことが判明。メディアもまた取材をするうちに腰が引けた。

北アフリカやパキスタンのイスラム教徒の移民とともに、彼らの文化のなかに残る女性蔑視の前時代的な慣習が持ち込まれて、この引用にあるようなグルーミングの事件が長い間、多発していた。

にもかかわらず、地元警察や地元当局はそのことを把握しつつも「人種差別主義者」として糾弾されることを恐れて捜査や対処できずにいたというのだ。
つまり、北アフリカやパキスタンのイスラム教徒を自分たちとは異なる性的な問題を抱えた特殊な人々だとレッテルをはろうとする前近代的な差別主義者だと、世間から批判されることを恐れて躊躇したのだ。

多様性の肯定を正義とする姿勢が別のマイノリティを生んでいる

その件についての取材をはじめたメディアも、自称アンチファシストや地元警察からの抗議によって番組放送の中止を余儀なくされたというのだから、多様性への肯定に反する言動に対しては異常なくらいの反発があったようだ。

そのことを示しているのが次の例だろう。

その当時、グルーミングの問題を争点に選挙運動などすれば――あるいは口に出すだけでも――恐ろしいトラブルを招いた。労働党の下院議員アン・クライアーは、英国北部の選挙区で未成年の少女へのレイプ問題を取りあげたために、たちまち各方面から「イスラム嫌悪」や「人種差別主義者」のそしりを受けた。一時は警察の保護を受けたほどだ。中央政府や警察、地元当局、公訴局などがこの問題に向き合うまでに何年もかかった。

ようするに、これが多様性を肯定することを正義とする思考が、逆にそれと反する言動をそれがたとえ明確な犯罪を咎めるような場合ですら、前時代的な姿勢・思考であるとして扱うような別のマイノリティ=弱者を生んでしまっているのだ。それがいわゆる同調圧力となり、新たな保守層を生んでしまう。

結局は、自分たちとは異なる考えのものを批判し糾弾する意味では、スケープゴートをつくって自己肯定しようとする構図とは変わらないものがここでも見受けられる。

固定した正義感が悪を助長する

この多様性を肯定するがゆえに、犯罪的行為を行った者が移民であった場合に、その宗教や出身地についての言及することまで「人種差別」的だとして批判する行為が、犯罪の被害の拡大につながってしまっている事実はなんとも受け止めにくいものだ。

この数字を見たらそう思わざるを得ない。

ロザラムの町での虐待の捜査だけで1997〜2014年の間に1400人以上の子どもが性的に搾取されていたことが判明した。被害者は全員が地元出身の非イスラム教徒の白人少女で、最年少は11歳だった。全員が暴力的にレイプされており、中にはガソリンをかけられて、火をつけると脅かされた者もいた。(中略)加害者は全員がパキスタン出身の男性で、組織的に行動していたことが判明した。だが地元議会のある職員は、「人種差別主義者だと思われそうで、加害者の民族的出自を明らかにすることには不安があった。別の職員はそうしないようにと上司から明確な指示を受けたことを記憶していた」と話す。地元警察も「人種差別主義」だと糾弾されることや、地域の人間関係に影響を及ぶことを恐れて、行動を控えていたことが明らかになった。

事件が起こっているのを知らなかったから防げなかったのではない。「人種差別主義」と糾弾されることを恐れた結果が、1400人以上の子どもに被害を与えてしまったのだ。
直接的な加害者はもちろん、それを防げなくしてしまった世論の間違った「正義感」がこの結果を助長してしまったのだから、多様性を正義と考え、そうでない人を無闇に批判する姿勢がはたして良いのか?と考えざるを得ない。

正義が悪を可能にしてしまうということがあるのだ。

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偏った世論が職務の遂行さえ妨げる

しかも、当時のイギリスでこうした事件が起こっていたのは、イギリス北部の一部に限られていたわけではないという。

まったく同じ時期に、ロンドンに近いオックスフォードシャーでも同様の事件が起きていたのだ。

2011年の国勢調査結果の公表を前にした1月、9人のイスラム教徒の一団(7人はパキスタン、2人は北アフリカの出身)がロンドンの中央刑事裁判所で有罪を宣告された。性的な目的で11〜15歳の子どもを人身売買したかどだった。現代版の奴隷として売られた11歳の少女は、彼女の"オーナー"である虐待者のイニシャル(モハメッドの「M」)を焼印されていた。(中略)これはサウジアラビアやパキスタンの地方部で起きたことでもなければ、同じ時期に同様の事件が多発した英国北部の町で起きたことでもない。2004〜12年にロンドンからもそう遠くないオックスフォードシャーで起きたのだ。

同じような事件が英国北部とロンドンからそう遠くないオックスフォードシャーで起きていたというだけではない。
そうした事件への対応が「人種差別主義者」として糾弾されることを恐れて遅れて、被害が広がってしまったということまで同じなのだ。

メディアも大同小異だった。大衆が結論を導くのを妨げようとするかのように、婉曲語法に満ちた報道に終始した。オックスフォードシャーのケースでは、被告人の大半がパキスタン出身のイスラム教徒ではないことを理由に選ばれたという事実は、法廷ではごくまれにしか言及されず、メディアでもほとんど報道されなかった。警察や検察官やジャーナリストは、恐れも偏向もなく自らの職務を遂行するかわりに、大衆と事実の間に割って入ることが自分たちの職務であるかのように振る舞ったのである。

多様性を肯定しない者は人種差別主義であると安易に考えがちな世論が、警察やメディアの職務の遂行さえ妨げてしまう。その結果、被害を受けるのが自分たちの隣人であったとしても、直接自分たちが被害を受ける側にならないと、そのことにも気づかない。直接関係のない第三者の正義が当事者たちをより一層苦しくしてしまうということが起こってしまっている。

それはいま、このコロナ禍で遠巻きになにかを批判することが世の中をより一層住みづらくしてしまったり、会社組織のなかでなんらかの正義を声高にして何かを否定してしまうことで組織の活動自体を滞らせてしまうのにも通じる。

どんなに正しかろうと、それが当てはまるケースなどごくわずかしかなく、その正しさを主張することが多くの場合、望まぬ結果に人々を導いてしまうことが多いのではないだろうか。

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境界は固定してしまうから問題となる

自分たちが正義の側にいると信じて、それとは異なる考えをもった人たちがその自分たちの正義やそれにともなって得られる安心感を奪う者と見做して敵視する。
こうした態度が、本来ならそれとは反対な姿勢であるはずの多様性の肯定においてすら生じるのだから、なかなか事は複雑だ。

問題は、結局のところ、なんらかの肯定的な選択をするためには、同時になにかを否定しなくてはならないということに起因する。そうした役割をかつて体現する役割を担っていたのが道化であるということは、以前山口昌男さんの『道化の民俗学』を紹介した際にも指摘した。

日常的価値体系に組み込まれないものに対して、「歴史性」のなかで、人は、悪い、滑稽な、馬鹿馬鹿しい、穢らわしい、賤しい、醜い、汚い、薄気味悪い、怖い、危険な、反革命的、といった形容詞を貼りつけて、日常世界の「境界」に押しやって来た。

この境界の外に置かれるのが道化だが、道化はその「悪い」ものの反対側に位置する「善」や「正義」の立場にある王と裏表の関係にある存在だ。そして、道化は容易に境界をまたぐ者であったことに意味がある。ようは意味の固定を避け、常に新たな意味を生成する、自然な変化を体現する者として道化はあった。

だから問題は変化や生成をなくしてしまうことだ。変化や生成を嫌い、固定化する。
境界線を引き、類型化の思考を導入することが本当の意味で現実の問題になるのは、その肯定と否定の区分を固定化して、それを自分を肯定側に他者を否定側に置くための口実として「正義」の主張をしてしまうときなのだ。

正しさを固定することなく現実に向き合う

肯定と否定を分けることはなにかを思考したり認識したりするためには避けられないことだ。だけど、それを固定してしまって現実をみようとするから問題が生じる。

それはエドワード・サイードが『オリエンタリズム』で指摘していたことと同じだ。

学術上の研究者は、彼がいかなる東洋人に出会っても、その個々人が「東洋人」と銘打たれた類型と同じものだと考えた。セム語族とか東洋精神といった事柄に関する言説は、何十年にもわたる伝統の力によって、ある種の正統性を賦与されていった。そしてベルの驚くべき言い回しに見られるように、政治的良識に従えば、東洋においては「すべてが密接に関連しあっている」のであった。つまりオリエントに固有の原始性こそがオリエントだったのであり、そのオリエントとは、あたかも時間と経験を超越した試金石のごとく、オリエントを扱い、オリエントについて著述を行う誰もが立ちかえっていくべきひとつの観念なのであった。

サイードはオリエンタル(東洋)を西洋の視点で固定してしまってレッテルをはることを批判した。だが、しかし、いまはまるでその反対のことが起こっている。
[西洋の自死』から紹介したイギリスでの例のように、イスラム教徒の移民に対して過度なくらい多様性を認めて、彼らが犯罪を犯した場合ですらそれを批判することを「人種差別主義」だとレッテルをはるような別の凝り固まった視点が生じてしまっているのだから。

ようは自分と異なる相手をどう扱うのが正しいかを決めることが解決なのではない。むしろ、どう扱うのか正しいかなどを固定することができるなどという考えからどう抜け出すかというところにしか解決策はない。

自分自身でその都度考えられる人たちが集まるところに真の民主主義はあるだろう

単なる思考や認識のための区分=モデルであるはずのものを、現実における自分(たち)とほかの人(たち)のラベルとして固定して、相手を非難するのに使おうとするから問題が起こるのだ。

逆にいえば、すべての人がほかの誰かと対峙するたびに、相手のこともちゃんと尊重しつつ、既存のレッテル=類型にたよらず、自分と他者との関係に新たな評価を行います、たがいが共に良い道を進むにはどうすればよいかを、自分と相手のたがいに柔軟かつ創造的なコミュニケーションによってアイディエーションできれば、差別的な敵対化は起こらないはずである。

それをしないのは、現実や、目の前の相手にみずからの思考や行動で向き合うことを避けようとする怠惰さがあるからだ。

自分で考えて判断をするということを避け、「どうしたらいいですか?」とか、「指示や方針がないからできない」とかいう姿勢でいることに慣れてしまっているから、本当は日々異なる出来事、人それぞれ異なる状況や感情などに、その都度向き合って、現実の出来事、現実の相手とともに、良い状況をつくることができないのだ。
そうする代わりに、あの人はおじさんだからこう、あの子は女の子なのにああ、こんな時だからこれやっても平気、あの人はあの立場なのにこれこれをやってくれないと好き勝手に批判することで、自分が何か正しい判断ができているような気になっているとしたら、やばい。

そうではなく、何であれ正しさを固定することなく、何か問題がくすぶりそうなときこそ、自分の知っている正しさなどはいったん忘れて、その現場に参加している立場も考えも違う人たちとたがいに状況や意思を理解しつつ、その場のみんなにとっての新しく、その場でのみ有効な「正義」とは何か?を問う必要があるのではないか。

そして、何より重要なことはそこに直接利害関係のない外野があれこれ自分たちの正義を勝手に振り回すような不作法なことをしないことかもしれない。自分も意見を言いたいなら、ちゃんとその場に参加する必要がある。

そうした民主主義的かつ他人任せでない自律的な対話の場こそ、これからどんどん必要になってくるのだろう。




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