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食べものから学ぶ世界史 人も自然も壊さない経済とは?/平賀緑

「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録されたのは、2013年のことだ。僕らも和食というと、なんとなく古くからの日本の伝統的な料理であるという理解をしているのではないかと思う。

しかし、実際にはそうではない。『食べものから学ぶ世界史 人も自然も壊さない経済とは?』で著者の平賀緑さんは、

ご飯がパンに代わったというより、精米した真っ白ご飯を中心として野菜や魚介類のおかずを充実させた、今「和食」の名でイメージされるような「日本型食生活」が、実は戦後に確立されたと考えられます。

と書いている。

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日本食はたかだか昭和50年代頃に確立されたもの

農林水産省のサイト「日本型食生活のすすめ」でも、それは「昭和50年代ごろの食生活のこと。ごはんを主食としながら、主菜・副菜に加え、適度に牛乳・乳製品や果物が加わった、バランスのとれた食事です」と紹介されている。

昭和50年代、西暦でいえば1975年以降くらいか。上のサイトでは、「ごはん中心の食事のいいところは、和・洋・中ともよく合うおかずが、いっぱいある」ことで、バランスの良い食事だと言っている。この時点でまあ「和食」という言葉とは齟齬がある感じがする。だから、「日本型食生活」と言っているのかもしれない。

とはいえ、こうした「日本人の伝統的な食文化」は、たかだが40年数年前からはじまった「伝統」でしかないし、しかも、40年も持たずに変化しようとしているのである。農林水産省のサイトでは「日本型食生活を見直そう」とうたわれるが、40年にも満たないような伝統は「見直す」という言葉で考えるのが適切だろうかと違和感を覚える。

戦後の食料供給の変化

そもそも、僕らはコメが中心なのが日本の食文化のように誤解しがちだが、江戸時代まではコメは年貢として納めるもので、大多数の人々は「糧飯(かてめし)」と呼ばれた、麦類やアワやヒエなどの雑穀に、大根や葉っぱなどさまざまな食材を混ぜたものを主食として食べていたという。

明治になってコメを食べるようになるのですが、同時に、開国によって小麦粉や砂糖、油も海外から輸入されるようになる。

この変化を明確にデータで示すのが、平賀さんが本で紹介している、このグラフだろう。

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コメは1970年代以降減っているのは確かだが、それ以前に高度成長期を迎えた1955年以降も戦前の1910年代から1939年くらいまでの水準には戻っていない。世の中で言われるように、1970年代の暮らしが西洋化するなかで減りはじめたわけではない。

とはいえ、1970年代を境に「牛乳・乳製品」「肉類」が増えているのは確かだ。「野菜」や「魚介類」の伸びは、そのすこし前の55年代以降か。所謂「日本型食生活」に移行するなかで、コメを主食におかずが増えていった様子がここにみてとれる。

1955-69年は戦後の混乱を脱して国内で内食が充実した時期、電気冷蔵庫や電気炊飯器が一般家庭に普及していく時代だ。エネルギーが薪や木炭から電気やガスに変わって、家庭での料理の利便性の向上が食生活に影響を与えた。

さらに1970年代になると外食が増え始める。この場合の外食とは多店舗展開、チェーン展開の外食産業が対象になったものだ。マクドナルドとミスタードーナツが1971年、ケンタッキーフライドチキンが1970年、ピザハットとシェーキーズが1973年の日本開業。

ある意味「日本型食生活」がはじまったとされる1975年にはすでにそれと相対するようなファーストフードが急速に発展していたのである。

小麦粉と砂糖と油にまみれて

そもそも「日本型食生活」なんてものが本当にあったのだろうか?

以下のようなデータを目にすると、だいぶあやしく思えてくるのではないだろうか。

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例の「日本型食生活」がはじまるよりまえに、ポテトチップスやら不二家ミルキーやらマ・マースパゲティやらチキンラーメンやらハウス印度カレーやマルシンハンバーグなどが登場している。「油脂関係だけでもこれだけ新しい加工食品が誕生し普及したことがわかるでしょう」と平賀さんは書いているが、このリストに挙げられた加工食品に共通するのは、油が使われていることのほか、砂糖や小麦粉を使ったものが多いことだ。

ようするに、海外から輸入された食材である。
しかも、この小麦粉、砂糖、油の輸入が始まったのは戦後のことですらない。それは明治の開国からはじまっている。開国直後から、北米産の小麦粉を機械で製粉した真っ白な小麦粉が輸入され、「メリケン粉」(アメリカの粉)と呼ばれた。メリケン粉は真っ白に均等に製粉され、パンやお菓子をつくる工業用材料と使われた。お菓子で使われたのは英国の商人が扱った「洋糖」だ。どちらも当時の欧米が資本主義経済の発展を支えるために世界商品とした商材である。

そして、1906年には明治製糖(現・明治)、1907年に鈴木製薬所(現・味の素)と日清豆粕製造(現・日清オイリオ)、1910年に森永商店(現・森永製菓)が誕生している。

やがて第一次世界大戦がはじまると、政府とこれらの企業は、戦争特需にのってアジア市場への進出を推し進め、1930年頃の世界恐慌でもこれらの大企業は倒産した企業などを買い叩いて傘下におさめ、食品工業経済の支配を強めていく。こうした土台があって、戦争直後の時代にもアメリカからの小麦や大豆の食料援助を大企業は歓迎し、「コメばかりの食事は非難されて、小麦から作ったパンが奨励される」状況をつくっていく。

そして、1950年以降には、ヨーロッパも復興して自分たちで小麦粉をつくれるようになると、ヨーロッパへの輸出が止まったアメリカはさらなる日本市場開拓をねらって日本政府や大手企業に働きかけるようになる。粉食が推奨されたり、もっと油を摂りましょうとフライパン運動というキャンペーンも行われる。それだけでは足りないから、先のリストのような加工食品が生み出されたのだ。

すでにこうした流れがあったなかでつくられた食生活を日本の伝統的なものとするのは果たして正しいのだろうか?と思う。

プランテーションが各地の農業を変えた

さて、日本の流れをみたが、こうした食の変化については、世界的に農業が資本主義の大波に飲み込まれていった流れの一部にすぎない。

まえに『植物園の世紀 イギリス帝国の植物政策』という本を紹介したことがある。

そこではイギリスによるアメリカをはじめ、植民地でのプランテーション経営が、現地にもともとあった農業を破壊し、現地民から土地を奪っただけでなく、アフリカから連れてきた奴隷を働かせて、彼らの口に入ることのない食物を大量に生産していたことを紹介した。

西インドでは白人が10倍以上もの人数の黒人奴隷を使役して、砂糖をはじめとする植民地物産を生産したのである。(中略)莫大な資本を投下して行なうプランテーションで、耕地を奴隷の食糧栽培用に転換することが、プランター個人にとって自殺的な行為であるのは自明であった。(中略)西インドの小さな島々では、かぎられた耕地のほとんどは、砂糖をはじめとする綿花、コーヒーなどの輸出用作物の単作にあてられ、奴隷の食糧のほとんどは北米植民地からの輸入にたよっていた。

この状況で植民地であった北米が独立しようとしたら、何が起こるか。その話は川島さんの本で確認してほしい。

こうした砂糖や小麦はプランテーションで生産され、本国であるイギリスやその他各地で売られた。

これらの食料は、本国イギリスで当時産業革命の時代以降に大量に生まれてきた都市の労働者たちの胃を満たすパンや紅茶に入れる砂糖になった。

生きるために必要なモノを自給できない人たちという「市場」ができたことから、そこへ「商品」を供給するため、農業は売るための商品作物を大量生産する産業へと変わり、農産物は食品製造業の原材料へと変わり、それを貿易・商取引する流通業が発展し、こうして大量生産された「食べられる商品=食品」が労働者の食事となる。つまり、いくつもの産業が組み合わさった「資本主義的食料システム」が形成され、資本主義経済の一角としてその発展を支えてきたということです。

新自由主義以降の現代はグローバリゼーションが進んだ時代とされるが、いやいやなかなか18世紀くらいからすでに市場は十分にグローバルだ。

本書にはこんな三角貿易の図とともに、奴隷船の図版が掲載されている。

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プランテーション経営が行われた植民地の農業が破壊され、そこで自分たちで食べることのできない大量の奴隷たちを生んだだけでなく、そう仕向けた帝国側でも産業革命で多くの農民から土地と仕事を奪い、自分たちが食べるものもつくることのできない労働者たちをつくったのである。得したのは一部の資本家たちだけである。

GFVC戦略という悪夢

こうした歴史的な流れのなかに僕らの食と農業のかたちはある。

そして、「基幹的な農産物を除いて、内外価格差の著しい品目については、着実に輸入の拡大を図り、内外格差の縮小と農業の合理化・努めるべきである」とされた前川レポートが1986年に出されて以降、グローバリゼーションのなかで食糧自給率40%のこの国がいま推し進めているのが、グローバル・フードバリューチェーン戦略(GFVC戦略)と称して、産学官連携による「Made WITH Japan」の推進だというから唖然とした。

これは「言語急速な成長が見込まれる世界の食市場を取り込み、我が国の食産業の海外展開と途上国等の経済成長の実現を図るため、官民が連携して(略)」いこうということで、日本で作った製品を輸出する「Made IN Japan」にはもうこだわらず、海外で日本が関わってビジネスを展開する「Made WITH Japan」戦略に切り替え、成長しようというわけです。

平賀さんは「「和食」のユネスコ無形文化遺産への登録も、「日本人の伝統的な食文化」をブランド化しグローバル展開していくための戦略の一環とも考えられるでしょう」と書いている。そのブランド化とグローバル展開の結果、海外の和食レストランを外国人が経営し、使われる食材は海外産でもかまわず、それらをコントロールする商社だけが理を得るのだとしたら、その背後でどんどん劣化していく土壌やそうして職を失っていく農家はどうなるのだろうか? 世界的な食糧危機が現実味を帯びてきているなか、経済優先の姿勢は狂気の沙汰である。

そのあたりの話は次に紹介しようと思っているこの本までとっておこう。

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