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記述

現実を記述すること。

自分が生きた現実を記述する。それには大きく分けて2つの方向性があるはずだ。

1つは、自分が見たこと、経験したことを既存の概念やシステム、文脈に合わせて当てはめながら記述すること。
もう1つは逆に、自分が見たこと、経験したことから、既存の概念やシステム、文脈を更新するような発見を見出すために記述をすることだ。

どうせ生きて、記述を行うなら、後者の方が断然いいと思うのだけど、どうだろう。

体験と記述

正しいと思うものに沿って生きる。既存の正しさをなぞる。
もちろん、それも大事だと思う。

だが、正しさが足りていればそれでも良いが、不足しているなら、もうすこし正しさを発明した方が良い。

いや、正しさに限らず、人類の、そして、このさまざまな生物が生きる環境をもっと良くするための知は、まだまだ不足しているのだから、みんなで見つけた方が良い。

この世界はあいも変わらず、大きな実験場だ。
変わったのは、より多くの人が実験や観察に参加できるよう開かれたことである。
その実験の指針がSDGsだろう。

発見のためには、ちゃんと観察し、実験した結果を記述することで、何の発見があったかを明るみに出すことだ(もちろん観察や実験を先にしてることが前提だ)。
どんな重要なフィールドワークでの観察も、実験室での実験も、その体験の結果をそのまま記述という翻訳作業を通じて発見に結びつけないと、その価値は半減する。

このnoteという場も、そうした実験記録の場であるとよい。2つの記述の方向性のうち、どちらの記述を各ユーザーが行うかにもよるが。

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クリシェを避けて

見たこと、体験したことを、固定観念の外で見直し経験し直すこと。それは記述を通じて行われる、完成される。

はじめて見たこと、はじめて体験したことであるはずのものを、ありふれた既存の知に回収してしまわないようにすること。
発見の機会は、実は日常にあふれているが、僕らの固定観念がそれを妨げる

ブリュノ・ラトゥールはこんな風に書いている。

下手なレポートは、そのためだけに書かれておらず、事例に固有に妥当するものではなく、特定の読者に対して特定のアクターの記述を行うものではない。下手なレポートは、標準的であり匿名的であり包括的である。そこでは、何も起こらない。それ以前に社会的なものとして組み立てられたものに関する決まり文句(クリシェ)が繰り返されだけだ。

先日から紹介している、『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』のなかの一文だ。難解なところもあるので、進みづらいが、2部構成の第1部を読了し、500ページ中300ページ強まで読み進めた。

アクターネットワーク理論に肝要なこととして「記述」の重要性を掲げるラトゥールは、上手なレポートと下手なレポートを区別して、上述のような指摘をする。

ネットワークは記述の対象ではない

発見なのだから、観察結果が生じた理由を、その背後に「経済的格差」があるとか、「性差別」があるとか、既知の決まり文句(クリシェ)のような概念に当てはめて、満足してもいられない。

アクターネットワーク理論が社会科学の科学的な発見のために行うのは、調査結果を上手にレポートとして記述することだ。

その手段が「ネットワーク」であって、僕も最初勘違いしていたが、アクターネットワーク理論は、アクターたちの既存の形づくられたネットワークを記述するのではなく、アクターたちが行ったこと、言ったことの連関をネットワークとしての記述として発見していくものなのだ。

ネットワークは、何かを記述するのに役に立つツールであって、記述される対象ではない。

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ネットワークをたどる

であるからこそ、「上手い報告とは、ネットワークをたどることなのである」となる。

すでに明確なネットワークを記述対象にするのではなく、記述を通じてアクター同士の連関をたどり、新たなネットワークを発見すること。

ラトゥールが記述を重視するのは、そうした理由からだ。
ネットワークをたどるという体験は、僕自身、フィールドワークやインタビューの結果をKJ法を用いて整理していくなかで何度かしたことがあるので実感できる。それはまさに現実に起こっているが、まだ発見しきれていない連関を、記述を通して明らかにする作業だ。

そういう時でも、あらかじめ頭の中にある固定観念に、無理矢理データを当てはめてしまうと悲しい結果になる。わからないことをわかろうとする際、すでにわかってる事柄にただ無理矢理あてはめるのか、集めてきた事象に固有なものから今まで知られていなかった事柄を発見しようとするのか。その違いはあまりに大きいのだけど、その大きさにさえ気づかない人は多い。

人間関係より、人とモノとのネットワークを

そんな風に、日常的に、僕らもすでに存在する概念に、自分たちが見て体験した結果をただただ当てはめるような記述に満足してばかりいるのではないだろうか。それでは現状維持こそ可能かもしれないが、もっと自分たちの生きる環境を良くするために必要な発見は得られない。

既存の枠組みに当てはめて、何かをわかった気になってしまう。
1つ前の「くよくよしない」でも書いたように、時にはそれが目の前で起こってもいないことを何かの陰謀論のようにでっち上げ、勝手に他人を悪くいったり、必要以上に気持ちをネガティブな方に追いやったりという、間違った認識に人を誘ってしまう。

だからこそ、見たこと、体験したことを既存のフレームワークに当てはめ、理解した気になってはいけない

そうではなく、起こったことを個別にちゃんと見つめた上で、それが何との関係でそうなったのか、特に人間関係以上に、モノとの関係、場所との関係、状況との関係において理解することだ。

ラトゥールが人とモノとの民主主義というのは、そうした意味においてであるのだから。

正しく記述することでネットワークをつなげることを心がけたい。

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報告の命運

自分が見たこと、体験したことの報告を上手く書くことには、そうした正しさに対する倫理との関係があるのだと思う。

書くことによる報告の命運は、すべての媒介子の命運と連続しており、他方の学派のように断絶していない。1つの輪が切れるだけで鎖は切れてしまう。社会的なものが、一続きの痕跡であるならば、さかのぼってたどることができる。社会的なものが、組み合わさったものであるならば、組み直すことができる。

社会における痕跡を、書くことでちゃんと1つの鎖として発見すること。
そのことで、悪い連鎖なら断ち切る方法が見つかるかも知らないし、良い連鎖なら他にも応用できるかもしれない。

ラトゥールは、こう言う。

記述するということは、具体的な事態に注意することであり、目の前の状況に固有に妥当する報告を見出すことです。記述することが途方もなく労力を要することを、私自身いつも実感してきました。

誰かの目で見ないこと。レッテルをはらないこと。既存の知識に当てはめるだけで安心しないこと。既存のカテゴリーに分類することが何かを理解することだと思わないこと。

世界で起こっていることは、すべて、そんな窮屈な場所からははみ出している
ちゃんと、そのことに気づいてあげること。

そこからはじめて僕らの記述ははじまるのだろう。


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棚橋弘季。人間の思考はどんなふうに作られているか?を問うことがライフワーク。とりわけヨーロッパ文化史に興味あり。中世後期から19世紀あたりまでを広く守備範囲に。渋谷のロフトワークという会社で働いてます。
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