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自分で理解する(答えをつくる)

理解するのには、2つのベクトルからのアプローチがある。

1つは、話をする側、何かを表現し伝える側のほうから、受け手に理解してもらいやすく工夫することで受け手の側の理解を得ること。
もう1つは、その受け手の側、話を聞く側であり、何か表現されたものを視聴したり読んだりする側のほうから、自分から積極的に発信者側が何を言ってるか、言おうとしているかなどを理解するために、内容を整理したり、わからない点を質問したりすることで理解を形づくろうとすること。

現代において、前者の努力は方々でされている一方、後者の努力は前者に寄りかかってばかりであまりなされない傾向にあるように感じられる。
ベクトルは2方向ありつつも、「理解」は最終的に受け手の側の問題なのだが、受け手となった時に「理解」しようという自覚とそれを実現するための自分なりの方法論をもてていない人が少なからずいることに問題を感じるのだ。

インプットを増やす

外からインプットを受ける受け手の側が、自分で理解するという努力が足りない。
その観点でいうと、そもそものインプットの機会自体が少なく、それを増やそうとする姿勢のない人が結構いるのではないかと思う。

僕のまわりでもときどき、インプットが足りない人がいるよねという話題になることがある。
ここではインプットすることと「理解する」ことの関係を考えてみたい。

ここで考えたいのは、静的な「理解」ではない。動的な状態変化としての「理解する」ということを問題にしたい。

端的にいえば「理解する」ということは、理解できていない状態から、理解できた状態に移動するということである。

であるなら、理解できていないものに出会わない限り、「理解する」という状態変化は起こりようがないともいえるだろう。
すでに理解できているものばかりを目の前に置いてしまっている状態では、なかなか「理解できていない→理解できた」という変化は起こりにくい(もちろん理解できている対象の別の面を新たに理解するということは起こり得るが、話をシンプルにするため、そこは一旦無視する)。

だとすれば、やはり「理解する」という状態変化を起こすためには、大前提として、まだ理解できていないものに向き合うということが必要だということになる。
理解できていないものに対峙すること。それは「理解する」という状態変化を起こすためのスタート地点に立つことなのだから。

インプットの意味を捉え直す

これが「理解する」という側面からみたインプットすることの価値だ。

まだ理解できていない物事に、「インプットする」という形で向き合う。理解の対象としてのインプットと向き合うことで、「理解できていない→理解できた」という状態変化を起こす。

ここに「インプットする」ことと「理解する」ことの関係がある。
インプットから新しい理解を得ようとしないなら、インプットするという行為に時間を割く意味がそもそもない
ただ、ひたすら情報収集に日々時間を費やしてばかりで、すこしも自分のなかで物事の理解が深まらない人は、まさにインプットを通じて、「自分なりの理解をつくる」ということをしていないのであって、それではインプットすることの意味を半分以上捨ててしまっている。
インプットすることの意味を捉え直すことが必要だ。使えないインプットは価値が少ない。使いこなすためにはインプットそのままで溜め込んでおくのではなく、ちゃんと自分で「理解した」状態でアーカイブしておかないと意味がない。

自分の思考や行動に使えるものをインプットを通じて増やす。それは物事の理解を深める、そのための理解力を高めるということだろう。
それには自分なりの理解の仕方を身につける具体的な努力が必要だ。

「理解できていない→理解できた」という状態変化を、自分のなかで、自分の力で起こせるようにする繰り返しのトレーニングを具体的な努力として行いたい。
つまり、その変化のスタート地点に立つために、理解できていない対象に対峙するという意味でのインプットをすることを毎日の日課にすることだ。

そう。インプットを増やす必要がある理由のひとつは、「理解する」という活動のスタート地点に立つ機会を増やして、自分なりの理解の仕方を試行の繰り返しのなかでつかむ、その機会を増やすということなのだ。

共通解は正解とは限らない

正しい理解、そんなものを安易に想定しまいがちなのが、そもそもの理解を阻む要因のひとつだ。
正しい理解なんてものはない。
そう、正解なんてない。

もちろん、世の中に共有された意味はあるし、それについての理解を得るということに意味はある。
けれど、あくまで、その解は単なる多数決的な意見でしかない。
ある共通の立場からみたら、ある対象となる物事が、多くの人から同じように見える、理解できるという「解」を共通解として有効に利用しているというだけだ。

けれど、そのことは、その対象に対する解が、その共通解には存在しないということを意味するものではない。
また、前提としての「ある共通の立場」を共有しない人にとっては、その共通解はなんら正解としての意味を持たない、無意味な解であることだって起こりえる。そういう人にとっては、自分の立場からみた理解のほうがよっぽど役に立ち、それが共通解とは異なる理解だからといって、不正解なわけでは全くない。

その意味で、共通解だからといって価値があるというわけではない。
だから、正解探しをしている人、答えそのままを外から教えてもらおうとしている人は、そもそものスタンスが良くない。

共通解、世の中的な正解は、あくまで立場や状況や価値観を共有できている人たちにとっての理解――理屈にあった解――であって、その前提が共有できていない人にとっては、理屈に合わず意味のわからない解もどき(つまり理解不可能な理屈)にならざるを得ない

にもかかわらず、それが正解だと信じ込んで、自分の思考や行動に無理やり当てはめようとするから意味不明なことが起こる。
そもそも本当の意味で求める答えにあっていない、場違いな答えを正解と信じ込んで採用しても、それが機能するはずはない。

世の中の正解を、自分で理解しなおそうともせずに採用してしまう人たちの不幸がそこにはある。

自分の答えをつくる

自分の人生なんだから、自分に合った理解をして、その理解に基づいて、考え行動をした方がいい。僕はそう思っている。

もちろん、それは自分の身勝手な理解を押し通して、他人の意見には目も向けないというようなこととは違う。
自分の理解を尊重しようとするなら、同時に、他人のその人なりの理解も尊重してあげないといけないと思う。

だから、理解が多様なことを前提として、たがいがどういう立場でどんな理解をしているかを共有する機会をもつことが大事だ。
何か正解があるなんてことを前提とせず、誰かから正しい答えがもらえることを受け身で期待したり、自分の理解が正しいなんて主張したりすることなく、複数の多様な理屈があることを前提に、それらすべての理解が同時に成立する日常があるのがよいと思う。

それには、各自が自分自身で、自分の答えをつくりだす力を鍛えておくことが大事になる。
もちろん、ゼロから答えをつくりだすことなんて誰にもできない(ごく少数の天才でさえ厳密には無理だ)。だから、他人の理解した答えを参照しつつ、複数の参照項から自分の答え=理解を編集的につくりだすことになる。

その答え=理解が自分のものであるためには、その答え=理解が自分の思考や行動に役立つようになっているかが条件になると思う。本来、それがセオリーと呼ばれるものなはずだ。利用する人にとって有効な理論。それは実際にそれを使って思考し行動する人にとって有効な世界理解を指すはずで、万人に共通なセオリーはあってもいいが、どちらかというと稀で、本来人それぞれ自分のセオリーがあっていい。

だかや、自分の状況、自分の目的や目標、自分の価値観と、その理解すべき物事が置かれた状況との関係を視野に入れながら、どのように理解すると、自分の置かれた状況において納得感があり、有効な解釈となり得るかそういう視点から対象を捉えて、それが何かを考えみることが大事になる。

自分自身も理解する

それには、対象についてと同時に、実は自分自身についてもちゃんと理解できることが必要だ。自分の状況、目的、目標、価値観、そして、意思やどうなりたいかというヴィジョン(大袈裟なことではなく、今夜何食べたいかとか、どんな話を誰としたいかなどを含めて、実現したいこと)を、自分でちゃんと明らかにできること、可視化、言語化できること、そういう意味での自分自身の理解ができることが、対象となる物事について自分の答え、自分にとって理屈にかなった解釈をする上で実は欠かせないものだ。

ようするに、対象となる物事の理解と自分自身の理解とは切り離せないものであるということでもある。
逆にいえば、このことが世の中の共通解をすこし疑ってかかったほうが良い理由でもある。共通解からは、えてして自分自身についての理解が置き去りにされてしまっているのだから。

そうやって、物事に対する理解と自分自身への理解を同時に考えるということは、自分を大事にすることとまわりの人や物事も同時に大事にすることにもつながるのだと思う。
そして、理解の対象が地球環境や自分とは違った環境や状況にある人々たちにも及べば、自然とそれらを大事にしたいという気持ちが自分ごととして感じられるようになる。

そういう点では、ここで書いたような意味での理解力というのは、所謂SDGsのようなことを考える上でも大事な姿勢であるように思うのだ。

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