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アニメート

本選びの勘が当たった時というのは思いのほか嬉しいものだ。

フリードリヒ・キットラーの『ドラキュラの遺言』を読み終わったあと、それに関連するものを読みたいなと思ってたところ、本屋で『マテリアル・セオリーズ』という本がたまたま目をひいた。映画・映像理論の研究者・北野圭介さんが中心となった対談集で、目次を眺めてなんとなく興味をひかれたので購入。

すこし読み進めて、こんな記述を発見したときは「当たり!」って思った。

メディア論のなかでニュー・マテリアリズムについて語る際、必ず触れられるのがフリードリヒ・キットラーの存在です。彼のマテリアリズムは北野さんが挙げられた3つの起源とは異なり、物理的な基層を把握することを主眼としていました。それは、ニュー・マテリアリズムにおいて顕著な、物理と意識の境界を曖昧にするデュアリズムではなく、メディアの物理的なところに注目し、ソフトウェアは存在しないという観点をとります。

「新しい唯物論の可能性とその限界」という対談のなかの、対談相手であるアレクサンダー・ザルテンの発言。

そもそも、この本にひかれたのは、まさに「ソフトウェアは存在しない」といい、メディアの物理性を説いたキットラーの思想の先を考えてみたかったからで、「新しい唯物論」を冠したこの本が目次からも物理的な側面と関連した形でメディアや人間を扱っているように感じられたからだ。とはいえ、ドンピシャでキットラーの名前が早々と登場するとは思わなかったので、上に引用した箇所を見つけたときは興奮した。

この本を読みはじめて最初におもしろいと感じたのは「アニメーション」という概念の新しい用法だ。

先の対談の続きで、ザルテンはこんな発言をしている。

メディア研究の場では、レフ・マノヴィッチが「アニメーションは映画のサブカテゴリーではなくて、映画はアニメーションのサブカテゴリーだ」といったように、映像の研究パラダイム変更さえ求められている。

ここで話題にされているのは、新しい唯物論=ニュー・マテリアリズムだ。

ザルテンによれば、ニュー・マテリアリズムというのは、「脱構築主義以降のテクストに重点を置くデリダ派のメソドロジーに対して、身体あるいはマテリアルな側面に注目するドゥルーズ派の考えが強まっているという流れ」だという。

ちなみに、上の引用中に名前のでているレフ・マノヴィッチという人は最近『インスタグラムと現代視覚文化論 レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって』という本がやたらとamazonでリコメンドされると思って「なんで?」と思ってたのだが、確かに、こういうことを言う人の本なら興味はある。

では、なぜ、ニュー・マテリアリズムの議論の中で、アニメーションの話が登場するのか?
ニュー・マテリアリズムの流れのなかで「モノをアニメート」する傾向がみられるとザルテンはいう。そして、「モノが生きているという考えがなぜそれほど魅力的に映るのかということを考える必要がある」のだといっている。

これを理解するため、補助線として北野さんの発言も引用しよう。

アニメーションについて補足するならば、この言葉を動詞化すると、アニメート、つまり魂を吹き込むという意味になります。そう見ると、ジャンルとしてのアニメーションではなく、映像全体、さらにはメディアテクノロジー全体に関わる非常に重要な問題になりますね。現在「映画」と呼ばれているメディウムの最初期における呼び名のひとつは、フォトグラフィック・アニメですからね。

アニメートが息を吹きこむという意味であることに気づけば、アニメーションが「モノが生きている」という議論と関連づけられるのは理解しやすくなる。

そもそもアニメートが語源として、生命や魂の意味を持つラテン語「アニマ」を持つことや、アニミズムとつながったり、アニマルともつながることに気づかされる。

そういう理解をした上で、この北野さんの発言を引用してみよう。

(マイケル・)タウシグはニューヨーク大学で隣の教室で教えていたし、その講義にも出ていました。彼が主張しているのは、近代あるいは資本主義下においては、通常考えられてきたのとは逆に、アニミスティックなセンシビリティが、資本主義と補い合うように、社会のなかに発生しているということですね。わたしがロンドンに滞在したときには、キャピタリスト・アニミズムは映画研究のなかでかねてよりもさらに積極的に論じられていました。わかりやすくいえば、90年代半ば頃から「ガジェット」といういいかたがされるようになりましたが、スマートフォンを顕著な例として私たちがスマホを用いているのか、ガジェットデバイスが私たちを呼び出しているのか、容易にはわからなくなっていると。これは、アニミスティックな感性をめぐってです。

資本主義社会下で生まれてくる様々なガジェット、そうした対象がもつアニミスティックな性質。それらはアニマルでないのだけれど、アニマを感じるような動きをもつ。

ここで大事なのは、確固たる生命のようなわかりやすいものではない。

ほかの箇所で映像をめぐって、見えないものが見えるとか、見えているものの見せ方/見え方をあらためて提示するという性質が議論されるのだが、ここで語られるアニマに関しても、歴然として常にある生命、魂というよりも、モノに魂を吹き込んだり、モノが生きているように見えるようにする/生きているように見る、まさにアニメーションの問題だ。
だからこそ、「映画はアニメーションのサブカテゴリー」なのだし、いまや、ほかにも様々なモノや表現形式が「アニメーションのサブカテゴリー」であるし、人工知能やロボットなどはその最たるものだ。

このあたりの「確固たる」ものではないものを扱える感性がたしかにいま大事だと思う。
だから、テクスト中心的なスタティックになりがちなロジカルシンキングしかできない思考スタイルしかとれない人は苦労する環境になってきている。これは普段、仕事をしていてもよく感じることだ。きちんと明確なファクトだけで論理だてて筋道を立てなくては前に進めない人だと扱えない事象が今の世の中、多すぎるからだ。

思考そのものをアニメートするように、動的に思考することが必要だし、それがどんな生き物なのかわからないものに生命を感じること、映像のもつ何が映しだされているかわからなさに対するセンスをもつこと、そういう感性をもつことが求められているように思う。

こうした観点を含む、ニュー・マテリアリズムの関心が一気に膨らんだ。

というわけで、北野さんが翻訳したアレクサンダー・R・ギャロウェイの『プロトコル』、ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について』を購入した。

哲学はそれほど得意な領域ではないが、リアルタイムで進行中の哲学だけは文化史を読むように文化の流れと重ねて考えられるので比較的楽しめることがわかったのも今回の収穫。

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