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獲物の気配

ヨーロッパ各地の街に行ったときの1番の楽しみは、その地の美術館に行くことだ。日本で名前の知られた美術館でなくても、その街にちゃんとした美術館があれば逃さず行きたいと思う。

現代美術館もいいが、好きなのは、ルネサンス以降、19世紀くらいまでの作品を扱う美術館。
そう。美術史家のダニエル・アラスが『モナリザの秘密』で「14世紀初頭から19世紀末にかけてのヨーロッパ絵画を特徴づけるのは、それが自然の模倣という原理のもとで描かれているということです」と書いている、まさにその時代の作品を扱った美術館。
パリで言えば、ポンピドゥやオルセーよりルーブル、ミュンヘンで言えば、ピナコテーク・デア・モデルネやノイエ・ピナコテークよりもアルテ・ピナコテーク。

だから、このGWで行ったローマなどは比較的ルネサンスからバロックあたりの作品が数多く集まるので、ヴァチカン美術館は当然のこと、カピトリーノ美術館やボルゲーゼ美術館もすごく楽しめた。
まあ、ローマの場合は美術館に限らず、下の写真のヴィッラ・ファルネジーナのようにラファエロのフレスコ画があったりと、街中の教会や古い邸宅の壁にも有名な作品が数多くあるし、それらの建物自体、著名な作品だったりもするから感覚が麻痺するところもある。

とはいえ、当然ながら、美術館やこうした教会や美術館にある作品がすべてそれなりに知られた芸術家の作品かといえば、そうではない。ある程度、いろんな芸術家の知識がある僕でも聞いたことのない人の方が多い(ルーブルなどを除けば)。
地方の美術館にいけば、圧倒的に未知の作家の作品が数多く並ぶ中で、既知の作家の作品がたまにあるということのほうが多い。

それでも、なんのなく見ているだけでも、著名な作家の作品はわかる。
知らない作品であっても、「ん、これはもしかして、誰か著名な作家の作品かな?」と感じるものはたいていそうで、あまり見落とすことはない。

獲物は気配でわかるのだ。

実体験の場数

気配で獲物を察知する。
その察知力は年々精度が高まっている。

ただ、それは何も美術館で著名な作家の作品を見つける場合だけの話ではない。
仕事をしていても、見逃さずにおいたほうが良い「獲物」を見つける嗅覚は、経験値が増えるほど、高まっていくように思う。

獲物というのは、何かのチャンスだとか、ヒントだとか、良いネタだとかといったポジティブなものだけに限らない。これはほっておくとマズいかもと思えるリスクの種や、あいつ何かミスとかを隠してるなという後輩の仕草とか、ネガティブなものも含めて嗅ぎ取れるようになる。
もちろん、どんな気配でも嗅ぎ取れるというわけではなく、自分の職務に関係するもの、専門としている領域において、そういう「鼻が利く」だけだ。

この獲物の気配を感じる精度の高低は、実地経験の場数にすごく関係していると思う。

もちろん、ここでいう経験とはいうのは自分が責任をもって職務を果たした場数である。どれだけ自分自身で判断して、間違ったり、それなりの結果に結びつくことをしたりしたかという場数だ。

ただ、その場にいたとか、誰かのサポートをもらって判断したとかではない。
自分で場の状況をインプットに仮説をもって判断した結果が正しくても間違ってても自分の責任において、その後処理も引き受けたかという経験値で、状況から正しい獲物の気配を探るという嗅覚は研ぎ澄まされるのだと思う。

状況を元に、そこに未だないものを発想する力

ようするにどういう条件が揃えば、どういう解釈をすればよいか、その解釈によって獲物なのかどうか、どういう種類の獲物なのかを判断する仮説形成力の話だ。
つまりは、未知のものが現れ出てくる気配を、未だそれが現れていない場の状況証拠だけから読み取る=発想する力のことである。
単に、発想力とか、ジャンプする力、跳ばす力といってもよい。
既知のデータからどれだけそこにない未来の気配を感じて、想像力の力を借りて、イノベーションの種になるような発想に落とし込めるか?という話である。

その発想力に関係するのが「経験値である」ということは、つまり、そこにあるデータから未来の気配を発想する際に用いているものが、その場にあるデータだけでなく、過去の自分の経験から得たアーカイブされたデータも同時に必要だということだろう。
きっと判断の際、行われている思考は、その場の状況データにプラスして、自分自身の過去の経験のデータのアーカイブからその状況に似た状況をひととおり探ってみるということ、類似する状況ではその後、何が生じたかを想像し、その過去の結果を参考に類推を働かせること、で、その類推を参照すると、いまの状況ではどのようなことが起こり得るかを考えるという一連のプロセスなんだろう。

ようするに、手持ちのデータが多いほど、現在の状況に似た過去の状況とその結果のデータの数が多くなるわけだ。だから、類推に使える素材が増え、発想がしやすくなる。それが経験値が多いほど、鼻も利くようになるということなんだろう。

そこに未だないものを想像する力といっても、結局は、そういった過去データを有効に使った編集力でしかないと思う。
ゼロから新しい1を生み出しているどころか、膨大な過去の1を元に、それを発展させた別の1を作っているのにすぎない。

多くの人がここに気づいていない気はするが……。

自分で判断を迫られる状況に自分を置く

だからこそ、普段から経験値をためるようなインプットを増やす行動がどれだけできているか?が重要になる。

それは先に書いたように、自分で考え、自分で判断をし、その結果も自分の責任として問われるような、そういうインプットの経験値を増やすことでないとあまり意味はない。自分で考え、その結果が自分に跳ね返ってくるからこそ、学びになる。他人に言われるがままの行動や、他人の助言にしたがった行動では、嗅覚を養う学びにはつながらない。

プロジェクト実施における嗅覚を上げたかったら、プロジェクトをマネジメントする立場で動いてみないとその経験値はたまらないし、イノベーションを生みだすような嗅覚をあげたかったら、やはり、そういう活動を自分が引っ張る形でやってみないと鼻が利くようにはならない。
いや、もっと日常的な小さな業務の場合でも同じだ。はじめての状況でどう判断するかは、自分で考えて行動してきた場数で、正解を見つける確率も、それにかける労力も格段に違うだろう。

とにかく、自分で考え、自分で仮説を立て、その結果から自分自身で学びとるという繰り返しにどれだけ自分を置くことができるかということが大事なんだと思う。

リベラルアーツが大事だと言われるのも……

もちろん、そんな仕事ばかりの経験値をあげてもぜんぜん足りない。
仕事をうまくいかせるのに必要な嗅覚、経験値は、仕事の中にばかりあるわけではない。というよりも、むしろ、圧倒的に仕事の外にある。だって、仕事を通じて生み出したいものは、その仕事そのものというより、仕事の外にある生活の課題だったり、別の人たちの仕事の課題だったりするわけだから。

だから、美術館にいって、この絵はきっと著名な作家の作品だろう?と気づける嗅覚もちゃんと僕の仕事の役にたっている。
仕事と関係のない本をたくさん読み、それについて、このnoteにちゃんと感じたことや考えたことを自分の言葉で落とすようにしている経験も、ちゃんと仕事上での発想に日々役立っている。
それは個人的な趣味だからということもあって、ちゃんと自分が責任をもって判断し結果を受け入れている活動だからだ。その内容というより、この自分で責任をもって考え、結果を受け入れるということの繰り返しが大事なんだと思う。

いわゆるリベラルアーツ的な学習が大事だと言われるのも、まさにこのあたりが1つ関係しているのだろうなと思う。



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