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変わることを前提として

物事を動的に捉えることが必要だと思う。動的に、というのは、物事は常に変化していくものを前提として考えるという意味で言っている。

何かを行えば、それを行う前とは状況が変わることが多い。積極的に何かを行わずとも勝手に状況が変わって、その状況によって人の心理にも変化が生まれたりする。
いや、変わるのは人の心理だけではない。非人間的な環境の構成要素だって常に変わり続けている。

だから、何かを固定化して理解し、判断するのは、あまり意味がないことだと思う。
何かしようとする際に、それをしようと思った前提条件がいつまでも変わらないと思っていると、いつのまにか条件自体が変わっていて、やろうとしたことの意義自体がなくなっている場合がおおいにあることだから。

変化のシミュレーションを頭の中で行うことをデフォルトにするとよい。
常にこれをしたら何が起こるか、じゃあ、その次はこの手が打てそうだなというのを日常的に普通にできるようになることだ。
ほんと日常的な些細なことでも、そういうモノの考え方、捉え方をしてると、仕事である程度の期間にわたるような何かしらの計画を立てなくてはいけないときも、変化のシミュレーションをしながらプランを組み立てることができるようになる。

もちろん、そう簡単に短期間では変わらないことだって数多くある。
だが、一方でちょっとした拍子に簡単に変化してしまうものだってたくさんある。いや、基本的に変化するものの方が圧倒的に多い。
特に人間が絡むような事柄なんて、ほんとそうだ。変化しないものなんて、ほとんどない。

だから、物事は常に変化していくということを前提としないと、有効な思考にならないと思う。

1つ前の「ステージアップ」で書いたように、何か1つの施策を実行したことで起こる変化を想定に入れると、段階を踏んだ施策群の設計・実行により、単なる直線的な変化以上のものを、同じ期間内で起こすことも可能になる。
施策を1つ実行して1つステップアップしたあとに見える景色は、それまでとは異なり、前に可能だと思っていたこと以上のことがその時点では可能になることで、変化のベクトルを変えることができる。だから、変化は単なる直接的な変化以上のものになる。

このシミュレーションができるようになることが大事なのだと思う。その記事中にも書いたとおり、どう変わるかは仮説でしかないので、1つステップアップしたあとの次の施策内容は実際に変化の起こった状況に合わせてチューニングできるよう柔軟な設計にしておくことも必要だ。
それが「変化を前提にする」ということでもある。

変化を前提にせず、物事を固定的に捉えてしまうとこういうことがわからない。実際の状況は変化してるのに頭の中が切り替わらず現実の状況から取り残されてしまうということにもなる。
1つ1つの施策が何のために行われ、その結果、どんな変化が生じたかを常に考えられるよう、頭の使い方をチューニングしておくとよい。

そんなことを常日頃から感じているので、「生命形態は絶えまなく到来しては去り、変化して消滅していく」と言い、続けて、次のように書くティモシー・モートンの『自然なきエコロジー』という本はすごく興味深く読んでいる。

生命圏とエコシステムは、発生と停止に左右される。生きている存在者が形成するのは、人間の歴史がまさに展開されるための、有史以前からあるか非歴史的である定まった土台ではない。自然は均等でない歴史をうやむやにし、その闘争と痛みを見えにくくする。

著者は、エコロジカルな思考や対応がいまひとつ進まず、主流にならない要因を「自然」という曖昧だが強力な概念が固定化されていることを要因としてみている。だから「自然なき」というタイトルになっていて、エコロジカルな試みに批判的なわけではなく、むしろ、それを本当の意味で機能させるためには、どういう思考姿勢の変更が必要かを提示しようとしている(まだ、読みはじめたばかりなので、現時点での感触だ)。

人間が歴史の中で変化しているのと並行して、自然というものの見方も同時に変化しているというのが、著者の見方だ。だからこそ、人間の手がついていない自然という見方で、自然をアンタッチャブルな絶対者のように捉えてしまうことの問題点を指摘する。
先の引用の続きにはこうある。

多くのエコクリティシズムとエコロジカルな文学が原始主義的であるとするなら、先住民の社会がしばしば自然を定まった土台というよりはむしろ形を変えるトリックスターととらえるのは皮肉である。自然史の最後の言葉は、自然は歴史である、というものだ。「自然の美は、それが称するところによる非歴史的だが、その根本においては歴史的である」。

自然は歴史である。
この変化を前提に捉える思考姿勢がこれからより重要になる。

この引用中の「先住民の社会がしばしば自然を定まった土台というよりはむしろ形を変えるトリックスターととらえる」というあたりは、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』が非西洋的な非人間中心の思考として詳しく提示してくれている。

例として次のような箇所を引いてみる。

相関する相同性から変容するずれへと移行することを知らなければならない。
1962年の本のなかで論じられたトーテミズムは、分類に関わる関係のシステムであり、相関するセリーのあいだでは何も生じない。つまりそのモデルは、完全に均衡したモデルのようである。トーテミズムの「潜勢力の差異」は、それぞれのセリーに内的であり、他なるセリーに対して何か影響を与えることはできない。それとは反対に、生成が明示しているのは、純粋な外在性としての関係性、諸項をそれらが属するセリーから抽出するものとしての関係性、すなわち、リゾームになるということなのである。生成が求めるのは、諸項に閉じた関係性の理論ではなく、関係性に対して開かれた諸項の理論である。

ここでも、トーテミズムのような「完全に均衡したモデル」として静的な捉え方をするのではなく、開かれた外在性によって常に関係性の変容によるずれが生じる動的なモデルを考えることが提唱される。

例えば、アマゾンの民族においては「縁組は、ローカルには外婚制であり稀にしかみられないが、政治的にはむしろ戦略である」とされ、「友情や商業上のパートナーといった、いくつもの儀礼化されたつながりとなる」のと同時に、「物理的あるいは精神的な戦争状態、もしくは隠れたあるいは明らかな戦争状態がローカルな集団のあいだで永続するその裏側でなされるような、共同体の間の曖昧な儀礼となる」とされる。
また、この外在性における他者には人間のみならず、「動物、植物、精霊、そしてその他の人間性の疑わしい群生」も対象として含まれていて、

他者とは、最初から最後まで類縁者のことなのであり、強奪と贈与--もしくは、強奪や贈与の特殊なケースとして理解されるべき「交換」--の宇宙論的なゲームを義務づけられたパートナーなのである。

という形で、僕らが「自然」と曖昧にしてアンタッチャブルなものと見做すものも「宇宙論的なゲームを義務づけられたパートナー」として見做すという意味で、モートンが提唱しようとしている「自然なきエコロジー」を考える際の思考姿勢の形を示してくれているように思う。自然という環境は人間から切り離されたアンタッチャブルな絶対者などではなく、常に人間に影響を与え、人間から影響を与えられる、言葉は通じ合わないまでも同じゲームに参加するパートナーだということだ。

そのデ・カストロが論を展開する際に参照するドゥルーズ=ガタリの多様体(集合体)という変化をともなう存在論を社会学的に展開するのが、マヌエル・デランダの『社会の新たな哲学』だ。

歴史的な固有性を創出し安定させる過程としての集合体(assemblage)にかんする理論は、20世紀の終わり間際の数10年の時期に、哲学者ジル・ドゥルーズがつくりだしたものである。この理論は、異種混淆的な部分から構成される多種多様な全体へと適用されるべく意図されている。原子や分子から、生物学的な組織、種、生態的なシステムにまでおよぶ実体は、集合体とみなされることになるだろうし、結果として、歴史的な過程の産物である実体とみなされることになるかもしれない。このことはもちろん、「歴史的なもの」という用語が、ただ人間の歴史だけでなく、宇宙や進化の歴史をも含むものとして使われるということを意味している。集合体の理論はまた、社会的な実体にも適用されるかもしれないが、社会が自然と文化の境界にまたがるという事実こそが、この理論が実在論的なものであることを証明する。

ここでも自然的なものも含めて、歴史的なもの、周囲の環境における影響関係のなかで変化するものとして物事をとらえる姿勢が明確に提示されている。

この変化する集合体は、有機体のように、その内部が機能的に統合された全体的な関係性をもつものとは区別される。それは先のデ・カストロのアマゾンの民族の人々の例と同様に全体性に回収されない外在性をもつものとして描かれる。

外在性の諸関係はまず、集合体の構成部分が集合体から離脱し、異なった集合体へと接続され、そこでまた異なった相互作用を営むようになることを意味している。言い換えると、諸関係の外在性は、諸関係そのものが関係することになる項がある程度自律していることを意味している。

変化は、この開かれた外在性からもたらされるものといってよい。
旧来的な思考が閉じたシステムとして、プランをデザインしてしまうのに対して、外在性を視野に入れた変化を前提とする考え方においては、システムは決してプランどおりになど機能しない。システムは常に開かれており、その構成要素はいつでも常に他のシステム構築要素であることが同時に可能な自律性を有しているからだ。

デランダはそのことをこんな風に書いている。

組織を集合体と捉えることは、構成要素である器官が互いに緊密に統合されているのにもかかわらず、器官のあいだの関係性が論理的に必然的でなく、偶然的に定まりうるだけのものであることを意味している。すなわち、密接な共進化の歴史的な帰結である、ということだ。

こうした新しい存在論的な考え方を示す哲学に共通する、従来の人間中心主義的なものを超えた、ある意味、どれも環境主義的であるという観点でエコロジカルな思考には、「動的に物事を考える」ことにおけるヒントが数多く含まれている。

そうした動的な思考方法を研ぎ澄ませていくためにも、僕らはグレアム・ハーマンが『四方対象』で示す、「子供であれば」わかるが、大人には訓練が必要な、変化に伴う奇妙さを見逃さないような感性を育てていく必要がある。

最もシンプルな形をした郵便受けや木でさえ、その表面から絶えず新しいプロフィールを放射しつつ、一定の期間に渡って私たちにとって同一の統一体であり続けている。こうした出来事は、常識的な習慣によって、徐々にその謎を剥ぎ取られてしまう。だが、1つの持続的な感覚的対象が、それを見る人に対して、角度や距離、気分に応じて無数のかたちで具体化されうるという事態には、つねにどこか奇妙なところがある。子供であればまだそれが分かるかもしれない。しかし大人が、ワインボトルがただたんに回転することや山の向こうに徐々に火が落ちていくことに纏わりついているはずの不思議な雰囲気を改めて認識するには、多くの訓練が必要となるだろう。

開かれたシステムの外在性によって常に変わり続ける、この世界において、正しく楽しく生き続けていくために。

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