パサージュ論2/ヴァルター・ベンヤミン
時代というものは、常に変化していくものだ。
だから、とりわけ19世紀だけが大きな変化の時代だというわけではないのは理解しつつ、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』を読み進めていると、世紀の前半にパサージュという時代の変化を象徴するような工業製品的な街路かつ初期資本主義的な商業施設が誕生し、あてどなく街を徘徊する遊歩者という新たなかたちの人びとの類型が登場したたことも含めて、19世紀というのは、いまの時代につながる大きな歴史的転換点だったのだと、まことしやかに思われてくる。
よりよき人類
『パサージュ論』と総称されるベンヤミンが残した未完の大作のメモ群をまとめた2巻目である『パサージュ論2』には、「くつろぎ」なる概念が生産力への夢をはやくも失ったブルジョワジーたちの想像力の衰退との関係が暴かれる。
ブルジョワジーがプロレタリアートたちの手から奪い、自分たちが独占的に牛耳る生産力に対してもはや未来の夢を描けなくなることで「くつろぎ」の状態にまどろむ姿を、ベンヤミンは次のように「子どもを授かるという夢」とも関連づけていく。
子どもへの夢と、未来への夢は重なる。
それはより良き暮らし、より良き人類という、いまの言葉で言えば、ウェルビーイングを求める夢と同じ類のものだろう。生産力によって世界を覆い尽くそうとしはじめた初期資本主義の時代といえる19世紀の中頃にすでに、そうした未来への夢が失われ、倦怠とともにある「くつろぎ」のまどろみのなかに人びとを幽閉しはじめていたのだとしたら、いまのこの世界の状況もその結末として致し方ないものと理解できる。
そんなことを考えさせてくれるベンヤミンの『パサージュ論』にどんどん惹かれている。すでに3巻目を読みはじめいるが、まずは2巻目についても紹介しておきたい。
ボードレールのアレゴリー
第2巻は「H 蒐集家」「I 室内、痕跡」「J ボードレール」の断章から構成されるが、500ページあまりのこの本の400ページ以上割かれているのが最後のボードレールに関する断章だ。
と、ベンヤミンは書いて、照応(コレスポンダンス)とアレゴリーをボードレールの2つの特徴とみながら、ボードレールから19世紀という時代の考察を進める。
アレゴリーに関しては、17世紀のドイツ悲劇について扱った著作でも、ベンヤミンは考察を行なっていた。たとえば、こんな風に象徴と対比することで、アレゴリーの特徴をベンヤミンは示している。
この「硬直した原風景として、見る者の目の前に横たわ」る「歴史の死相」としてのアレゴリーという捉え方は、次のようなボードレールのアレゴリー志向と強く重なっているように思う。
硬直した原風景として横たわる原風景とは、この最新の古代の現れにほかならない。目の前にあるものを、とてつもなく古いもの=無縁なものにしてしまう憂鬱は、アレゴリー志向の賜物なのだ。
ボードレールは、詩集『悪の華』の最初の詩「読者に」のなかで、ほかのものより「さらに醜く、さらに邪に、さらに不浄な」一匹の怪物が「倦怠」であるといった。この倦怠は憂鬱な別名だろう。目の前のものすべてを、とてつもなく古く無縁なものに変えてしまうのだから、なるほど、憂鬱=倦怠は醜く邪で不浄な怪物である。
この怪物の誕生を19世紀を生きたボードレールが目の当たりにしていたことをベンヤミンは浮かび上がらせているのである。
自分自身を売りに出す
すこし前、数回にわたり、人間が消費者、大衆となったのが、ヨーロッパにおける19世紀のことだと書いてきた。
しかし、19世紀に人間は消費者になっただけではない。人間は同時に、自分を売りさばく者になったのだ。
そして、以下のようなベンヤミンの文章を読むと、19世紀にはまだ人間が「自分自身を売りに出している」ということは認識されたことではなく証明すべきものだったという点に、「自分を売る」ことの歴史性を感じとることができる。
自分自身を売ること。
ボードレールがみずからを投げ打ってまで、詩作品を売る詩人としての自分と売春が同じであることを必死に証明しなくてはならなかった19世紀中頃の「自分を売る」ことの後ろめたさは、それからまだ200年も経っていない21世紀初頭の今では、「自分を売る」ことは当たり前になっている。自分を高く売ることが成功であると信じられている。このわずか200年のあいだの社会的な価値の逆転現象はあらためて考えてみると実に不思議なものではないだろうか。
笑いかけて誘う
ベンヤミンは、こんな風にも書き残している。
いまのビジネスの場面においても「笑み」はポジティブなものとして受け入れられている。たとえ、それがビジネススマイルであっても、負の感情を思わせる怒りの表情や冷たい口調などより、良いものだと受けとることが当たり前のように思われている。
ベンヤミンは、ボードレールが「笑いの本質〔について〕」というエッセーにおいて「微笑でさえも本来悪魔的なものとみな」していたことを指摘している。僕らはもはや、ボードレールが気づいていた笑みというものが、人を真綿で首をしめるようにやわらかく気づかぬうちに死へと誘う悪魔的取引であることに気づけなくなってしまっている。やさしい笑みを抱いた悪魔にやすやすと魂を売ってしまい、身を滅ぼすはめになることがわかっていなかったりする。
芸術の諸条件が変わった19世紀、変わったのは芸術だけでないことを僕らはもっと知るべきだという気がする。
それはいまの言葉でいえば、ウェルビーイングとなる「よりよき人類」であることが、くつろぎのなかで見失われていった時代、大量生産、大量者の市場経済が世界を席巻しはじめた時代なのだから。
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