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デザインと言語化

何かをちゃんとデザインしようとすれば、様々なことを言語化することを想像以上にはるかに多く強く求められる。
いま誰を対象として考えているのか、問題をどのように捉えているのか、何を問題の原因と捉え、どのようにそれを解決しようと考えているのか。それはいったい、どのような価値がある何をデザインしようとしているのか。
これらを言語化するのは誰か説明するためというより、自分の想像力をより明瞭にするためだ。複数人でデザインに関わっているなら、チームとしてのイメージをクリアにするためである。
もちろん、デザインには言語化するよりもそれ以外の方法を取った方がいい部分はたくさんある。ただ、そうしたものを除いても、デザインの過程においては言語によって明らかにすべきことは想像をはるかに超えてたくさんある。

わかるということは、次に何のアクションをすればよいかがわかること

例えば、自分が何のためにデザインしようとしているか?を考えるとしよう。デザインをする目的をちゃんとデザインの方向性につながる形で自分自身に説明できる状態になっているのなら良い。しかし、本当にその目的はデザインを考えていく上で十分な指針を与えてくれるだろうかと、ちゃんと問い直してみただろうか。

なんとなくは何かが問題らしいが、実際のとこら、何が具体的に問題になっていて、その要因はどのあたりにあるのかがわからなければ問題は解決しようがないはずである。
それなのに、そのような問いを行わず、ただ提示された目的をちゃんと理解しないまま受けとっていないだろうか。それでは、デザインはまともに前に進まない。

ある事柄、ある対象について、自分がちゃんとわかってるかどうかを判断する基準って何だろうかと考えてみる。
たぶん、それって、その事柄なり対象に対して自分が何をすればよいかを自分自身で答えを作れるかどうかだろう。自分が何をしなくてはいけないかがわからないなら、それは目の前の対象についてわかっていないということだと思う。

ヒアリングやリサーチの結果をデザインの解へとつなげる

デザインの依頼者あるいはその関係者に、何が問題なのかをヒアリングして、そこから引き出された言葉で、デザインで解くべき課題が何かがわかり、その課題の解決にぴったりの方法がすぐに思い浮かんだのなら良い。しかし、そんなに簡単に解決策がわかるようなことなら、大抵は解決されているはずである。

多くの場合、問題は複雑に絡み合った複数の状況から生じているのだから、それを解きほぐすような構造的で論理的なイメージによって理解そのものをつくりだす必要がある。個々の言葉ではなく、その文脈や行間をきちんと炙りだす必要がある。これは一種の創作である。

この創作を一番手っ取り早くやるのが言語化する作業、もうすこし方法論的に言うと、KJ法なりアフィニティマッピングということになるが、「情報の行間を読んで発想力を高める」で書いたとおり、少なからぬ人がこの言語化の工程が得意ではない。得意ではなければトレーニングすればいいのだけど、なかなか、なかなか。

けれど、ヒアリングあるいはリサーチを通じて集めた言葉も、その表面をただただ言葉としてなぞってみても何も見えてこない。言葉を元となったリアルな体験、シーンへと戻してみる想像力が必要だ。言葉として抽象化されている表現が隠している具体的なものを想像しつつ「なぜ、どうして?」という問いかけから問題の真の姿や原因を浮かび上がらせることが必要だ。
その作業は個々のデータだけ見ていても見えてこないことが多い。だから、KJ法では類似のデータでグループを作ってみるのだ。元々は関係ない情報同士を類似によって並べてみることで、ひとつずつでは見えなかったことが情報同士の微妙なズレから浮かびあがってくるからだ。

こういう過程を積み上げていくことで、最初はどこにもなかった言葉のイメージが浮かび上がってくる。そのイメージがデザインの指針を与えてくれるなら成功だ。そうでないなら、作業の方向性がおかしい。自分が理解するという方向に向いてないということだ。

何を作り出そうとしているのかを自分に説明する

言語化が大事なのは問題を理解する時だけではない。問題の解決策を明らかにすること時にも言語化してみることは必要だ。

イメージで把握できることと言語にして把握できることは違う。だから、その差異をうまく使うことでデザインを違う角度から検証できるようになる。
視覚的な表現を中心にデザインを進めていくときも、ところどころで自分がつくろうとしているものを言葉にしてみることも大事なことだ。違った角度から自分の試みを知ることで、気づくことは少なくない。複数人チームで進めているなら尚更だ。ディスカッションから改めて気づかされることは多い。

イメージと言語のはざまで

とはいえ、視覚でみるのと、言語でみるのとは角度の違いから気づきはありつつも、ぜんぜん別の見方をしているわけでもない。むしろ、ズレながらもつながっているからこそ、イメージと言語のはざまで考えることに意味がある。
その意味ではアビ・ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』での、こんなイメージによるアフィニティマッピングのような試みも「わかる」ということにつながっているという意味では類似の方法だと思う。

いずれにせよ、言語にせよ、イメージにせよ、そこから何かを引き出したり、それらを素材に自在に何かを表現できるようになるためには、日々、言語やイメージを扱うことに慣れていくトレーニングは欠かせないと思う。

それを怠れば、結局、自分が何のために、何をやっているかが、自分でもますますわからなくなっていってしまうだろう。
自分が何がわかっていないかがわかるようになるためにも、デザインのための2つの道具、イメージと言語の取り扱いにはいくらでも慣れておいた方が良いだろう。

#デザイン #言語化 #KJ法 #デザインリサーチ

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