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冬物語/シェイクスピア

「芸術は、自然的なもの、動物的なものに根づいている」と書いたのは、1つ前で紹介した『カオス・領土・芸術 ドゥルーズと大地のフレーミング』のエリザベス・グロスだった。

自然あるいは生命と芸術の関係について、似たようなことをかつてロザリー・L・コリーが『シェイクスピアの生ける芸術』で、こんな風に語っていた。

シェイクスピアにとって「アカデミック」とは、その濫用された語の二通りの意味において、何であったのだろう……すなわち、彼にとって、何が単純で、容易で、自然であり、何が研究や学識を要するものであると感じられたのだろう。諸事、アートのなかに封じられると、慣習のかたちをとって「静」と化し、我々が思いを巡らす相手とされる。だが、アートが静を破って、アートがなすはずの、そして現になすようなありとあらゆる仕方で、「生ける」かのように見え、我々を「ゆさぶる」ように見えるとき、もっとみのり豊かではあるが、もっと困難な道のりが始まる。

静を破ったアートが"「生ける」かのように見え、我々を「ゆさぶる」ように見える"ときがあるという。自然的なもの、動物的なものから発したアートは、カオスから感覚をつくりだすとグロスは言ったが、また、それは秩序をカオスへと揺り戻す機能をもつともした。

この秩序の揺り戻しが、コリーのいう"「生ける」かのように見え、我々を「ゆさぶる」ように見える"ときであり、つまり生けること、すなわちカオス的なのだ。

コリーがシェイクスピアを参照して言っていることは、グロスがドゥルーズを参照して言っていることに近しい。

だからというわけでもないが、シェイクスピアの『冬物語』を読んだ。

いや、というよりも読んでいて、自然(あるいは生命)と芸術をめぐるグロスとコリーの関連性に気づいたのだった。

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悪事を行う者を睨みつける天

自然にしろ生命にしろカオス的なものだ。

芸術をはじめ、人工的な所作がフレーミングする(領土化する)からこそ、カオスは一時的にであれ、人間にとって有意な秩序を成したものとなる。

しかし、人工的なものと自然なものはまったくの別物、正反対のものではない。人工的なものの背後にはつねに自然的なものがある。

秩序=コスモスの基盤はカオスである。混沌とした観覧のなかからこそ生命は生じるし、生命はつねにカオスに戻る可能性をもつ。それがエントロピーというものなのだろう。

ゆえに、芸術であれ、その姉妹である哲学や科学による創作であれ、それは自然のカオスとは無縁ではない。いずれもカオスをみずからの存在の基盤としている。それは生命のそのものと同じだ。有為なフレームはいつでも外れて、カオスな顔を見せる。

詩人とはそのことをよく知っている者のことだろう。

アンティゴナス じゃぁ間違いないんだな、船が着いたこの荒地はボヘミアなんだな?
水夫 はい、そうです、それに
悪いときに上陸したようだ。雲行きがあやしい、
いまにも嵐になります。こいつはきっと
天があっしらのやろうとしていることに腹立てて
睨みつけているんだ。

これもまた牧歌劇

この『冬物語』という作品もまた、以前に紹介した『お気に召すまま』同様、牧歌劇の形式をとる。牧歌劇はシェイクスピア作品に限らず、ヨーロッパの文芸作品においては代表的な形式である。

その紹介記事でも、

牧歌劇は、羊飼いの生活、あるいはそうした農園労働者に混じって田園生活を送る人々の生活を、ロマン主義的に描いた演劇で、16世紀のイタリアに登場している。自然と人間の調和を歌うことの多い牧歌劇は、劇形式としては悲劇と喜劇を融合させたものとして知られてもいる。

と、説明したが、シェイクスピアの作品には『冬物語』や『お気に召すまま』以外にも牧歌劇の形式をとるものが多い。一見、そうとは気が付きにくい『リア王』や『テンペスト』にしろ、人工的な都市から一時的に、自然あふれる牧歌的な世界に追いやられ、そこでの生活で生命の息吹をうけて生気を取り戻して、元の都市へと帰還するという牧歌的なストーリーを踏襲している。

ようは、この牧歌劇という形式そのものが、自然と芸術の切ってはきれない関係を反映しているといえる。

コリーは『シェイクスピアの生ける芸術』でこんな風に書いている。

人工が人工でないものになるこの劇において、人工は見かけどおりのものではない。だから、寓意画のようでもあり謎めいてもいるその結末に見ることができるように、生もまた、見かけどおりのものではない。危機にあるとき、人間は、人間性と創造的能力という資源をともに必要とする。自然という資源とさまざまな学芸を備えた文明という資源を、必要とするのである。横溢する技巧をひけらかしながらも小手先の技など一顧だにしない、この法外に誇り高く自信に満ちた劇において、人工は人間の性質=自然にその獣性を文明化する機会を与え、人工と自然との交歓がかくして肯定されるのである。

「人工と自然との交歓がかくして肯定」するのに、牧歌劇という形式ほど、うってつけのものはない。

再生=リクリエーション

この記事を書くために「お気に召すまま/シェイクスピア」という紹介記事を読み直して気づいたのだが、『お気に召すまま』を読んだのは夏休み、今回もゴールデンウィーク中ということで、僕がシェイクスピア作品、しかも彼の牧歌劇を読みたくなるのは、どうも長期休みの期間中であるらしい。

あんまり書くとネタバレになるので控えるが、この物語は、牧歌劇らしく「再生=リクリエーション」がテーマになっている。

人間社会の問題がこの劇中にも起こるが、それを解決してくれるのは、自然の力であり、それを肯定し身を委ねる人間の姿勢である。いま、この持続可能性の危機においても、おそらく、それは変わらない。リクリエーションは、人の力のみではならず、自然と人工のあいだの障壁を取り除いてはじめて可能になるのだろうと思う。

自然による再生がなるとき、それはカオスの力の影響によって、人はその変化が吉兆なのか凶兆なのか判別できないのではないかと思う。それは人間の解する意味を超えた出来事の到来なのだろうから。

紳士 私には断片的なことしかお話できませんが、王とカミローに現れた変化はまさに驚愕そのもの。お互いに見つめあい、何と言うか、まるで目の玉が飛び出しそうでした。お二人の押し黙った沈黙には雄弁があり、身振りには言葉があった。世界が解放されたとか、滅亡したといった話でも聞かされたようなお顔つきでした。驚嘆のお気持ちだけははっきり現れていましたが、どんなに賢い人が見ても、見ただけではその表情の裏にあるのが喜びなのか悲しみなのか分からなかったでしょう。とにかく、そのどちらかの極みだったのは確かです。

再生というのは、休止のあとに訪れる、このようにこれまでの流れを断絶するように起こる唐突な変化に伴うものではないだろうか。ようは、保守的な期待を抱き過ぎれば再生も始まらないということでないかと思う。

休暇の気分にぴったりの一冊だった。


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