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生き生きと生きて考える

自分で自分の考えをつくれること。
同時に、他人の考えにもちゃんと耳を傾け、たとえ、それが自分の考えとは異なっていたとしても、ちゃんと受け入れ理解はすること(同意するかは別として)。

これはずっと感じていることだけど、あらためて最近特に強く大事だなと感じるようになったことだ。

いまのコロナ禍でのさまざまな状況や、今回の都知事選の機会でもあらわになったのは、自分で考えてある程度は自分の責任を感じて行動できる人と、自分で考えられないから上やまわりに責任を押し付け文句ばかりを言い続け何もしようとしない人との二極化だと思う。
もちろん、はっきり二極に分かれているというより、実際は両極のあいだでグラデーションになっているし、前者のほうが圧倒的に少数派なような気がしている。

危機の認識

何がまずいと感じるかといえば、この危機的な状況(コロナ禍ではない、人類の持続可能性だ)を打開するアクションが求められているのは明らかなのに、危機感の認識が他人事で、自分もそれを変えなくてはならない立場にあることがまったく意識されていないと感じるからだ。

あるいは、これだけ持続可能性の問いが投げかけられているのに、危機そのものの認識ができていないように思う。危機といえば、いまのコロナ禍での健康面の危機、あるいは自粛にともなう経済的な危機だけであるように考えていそうな人がこの日本には結構いそうで唖然とする。

今年も九州に被害にもたらした大雨などに代表される気候変動、温暖化の問題、ひとつ前の「接触仮設」でも取り上げた人種や宗教、ジェンダーや経済格差に基づく差別や対立の問題、香港の国家安全維持法や強調とは正反対に自国の事情を優先してECを離脱する英国やパリ協定を反故にする米国などの国家によるなかば暴力的な振る舞い、高齢化なども含めて下がり続ける一方である国内の生産性と人口減、それにともない起こるであろう地方の社会サービスの停止など、僕らがこれからも幸福に暮らしていくためには害しかもたらし得ない問題ばかりなのに、危機感すらもてないのいうのは、どういうことだろうか?

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あらゆる者が関心をもつことを求めている

ティモシー・モートンが『自然なきエコロジー』で、こう書いている。

汚染物質から巻き貝にいたるありとあらゆる存在者は、私たちが、科学的、政治的、芸術的な観点から関心をもつことを求めている。そのことで「自然」という一枚岩の概念が破棄されることになっても、そうすることを求めている。

と。

ここでモートンが言うように、僕らは「自然」という概念を筆頭に、これまで便利に使っていた概念を破棄して新しいものに見直さなくていけなくなる危険を犯してでも、僕らが普段見てみぬふりをしている、ありとあらゆる存在者たちが上げる悲鳴に耳を傾けないといけない

僕らは現実に存在するさまざまなものの有り様を自分たちの目でみたり耳で聞いたりしながら自分の頭で理解することをサボりすぎてはいないだろうか。
誰かに教えてもらったり、導いてもらったりすることでしか、暗い夜道や見知らぬ街を歩けないのだとしたら、あまりに子供じみてはいないだろうか。

「エコロジーについて書くことは社会について書くことであるが、それはただエコロジーにかんする私たちの考えが社会的な構築物であるという弱い意味においてだけではない」とモートンはいう。
僕たちとともにこの地球上でそれぞれに危機を抱えた存在者そのものの関係性について考えることがエコロジーであると同時に、社会的なことなのだ。

そして、モートンがこんな風に続けているように、僕らはそうしたさまざまな存在者とともに緊急事態の只中にある。

歴史的な諸条件は、社会の理論が働きかけることのできる社会的自然を消滅させたが、他方では同時に、この項目のもとに収まる存在者が社会へといっそう緊急事態的にぶつかっていくのをうながしていく。

それはコロナ禍以上の緊急事態であるのに、その危機感を自分ごととして、認識できないなんて、思考停止にも程があるだろう。

もっと、あらゆる存在に関心を示して、自分でそれがどういうことかを考えるクセをつけなくてならない。

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誰も考えを持たないためにコンセンサスがつくれない

デヴィッド・グレーバーの『民主主義の非西洋起源について』に書かれた、このような言葉を読んだとき、僕はすこし興奮を覚えたものだ。

垂直構造ではなく水平構造の重要性。発議は相対的に小規模で、自己組織化を行う自律的な諸集団から上がってくるべきものであって、指揮系統を通しての上意下達をよしとしない発想。常任の特定個人による指導構造の拒絶。そして最後に、伝統的な参加方式のもとでは普通なら周縁化されるか排除されるような人びとの声が聞き入れられることを保証するために、何らかの仕組みを――北米式の「ファシリテーション」であれ、サパティスタ式の女性と若者の会議であれ、無限に存在しうるほかの何かであれ――確保することの必要性。多数決の支持者とコンセンサス・プロセスの支持者のあいだの対立のような、過去の苦い対立の一部は、おおむね解決されてしまった。いやおそらくより正確に言うなら、次第に意味のないものとなってきたように思われる。というのは、ますます多くの社会運動が、小規模の集団内部においてのみ完全なコンセンサスを用いつつ、大規模な連合に際しては様々なかたちの「修正コンセンサス」を採用するようになってきているからだ。何かが起こっている。

しかし、ここで書かれているような「発議は相対的に小規模で、自己組織化を行う自律的な諸集団から上がってくる」とか、「指揮系統を通しての上意下達をよしとしない」とか、「常任の特定個人による指導構造の拒絶」とか、こういうことが起こるには、あまりに自分の意見を生産性のある場で声をあげていうことのできる人が少なすぎる。
だから「ますます多くの社会運動が、小規模の集団内部においてのみ完全なコンセンサスを用い」ることで立ち上がってくるような雰囲気が、残念ながら、この国の現状で感じる機会は僅かだ。

自主性が欠けている。
自分で考えること、自分の考えを明らかにすることが不足している。
アメリカ社会のようにコンシューマー・アクティビズムで、自分の考えを行動に移して表現することもない。

仕事でもプライベートでもない「社会変革に活動」としか呼びようがない行動が足りていないのはもちろん、社会になんらかの価値をもたらすのが役割であるがゆえ、本来ならそういうこともやりやすいはずの企業組織の仕事上ですら、みずから考えて、小さな集団でのコンセンサスを積み重ねながら、より大きな集団における修正版のコンセンサスをつくって社会を変える行動を起こすということが起こらなさすぎる。

誰もが自分の考えをもたないのだから、コンセンサスがつくられないのは当然だ。

この国でのコンセンサスプロセスの問題は、異なる考えが衝突してコンセンサスがつくられないということより、誰も考えがないのでそれがつくられないことだと思う。

この問題が山積みの状態で何故、そんな悠長なことになってしまっているのだろう?

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生き生きと生きて考える

結局、自分の考えがつくれないのは、自分がこの世界に生きていて、何を感じ、どのように心が動くかがわかっていないのだろうと思う。
世界で生きていくなかで何が自分の心を心地よく動かすかがわかっておらず、心地よさを得続けるため、自分は何をしていけばいいのかがわからないのだろうと思う。

つまり、自分が何を好むか、自分が好きな対象は何かがわからないのだと思う。
考えるというのは結局、そういう自分が好きなものとの距離感――ようするに価値観だ――を使いながら行う思考なのだから、自分でそのあたりのことが明確につかめていなかったら、「自分で考える」なんてことが上手にできるようになんてならない。

ゲーテのいう「品位ある対象」が欠けているのだ。

「そうとも」とゲーテはいった。「対象より重要なものがあるかね。対象をぬきにしてテクニックを論じてみてもしようがない! 対象がだめなら、どんな才能だって無駄さ。近代の芸術がみな停滞しているのも、まさに近代の芸術家に、品位ある対象が欠けているからだよ。そのことでわれわれもみな悩んでいる。私だって自分の近代性ということを否定できはしないからね」
彼はつづけた、「この点をはっきり自覚している芸術家なんて、ほとんどいないよ。何が自分の心の安定に役立っているのか、わかっていないのだね。例えば、彼らは私の『漁夫』をもとにして絵を描いたりするのだが、あれがおよそ絵なんかになるもんじゃないということを考えないてもみないんだ。あのバラードは、ただ水の感じ、つまり、夏にわれわれを水浴に誘うあの優美な力、を表現したものにすぎない。それ以上のものはあの詩には何もないのに、どうしてそれが絵になるものか!」

エッカーマンによる『ゲーテとの対話』からの引用だが、この「何が自分の心の安定に役立っているのか、わかっていない」ということが、「考える」ということの不可能性につながり、自分の考えと他人の考えのあいだでのディスカッションの成立をむずかしくしてしまっている。
(ちなみにこの記事の写真は、フランクフルト・アム・マインにあるゲーテの生家だ)

ディスカッション。
そう、他者との対話だ。
決定的に足りてないのは、対人間とだけでなく、世界にあるあらゆる存在者との対話だ。

自分以外との存在者との対話に関心をもたず、相手の考えも聞かなければ、自分の考えも伝えない。他者との思考のキャッチボールを繰り返しながら自分の好悪を探ることを怠っている人生を続けていれば、思考の力なんてつくはずはない

あらゆるものにあらゆる場面で忖度してばかりで自分を殺して生きているから、日々を生き生きと生きてないから、考えられないのだ。

もはや持続可能性はすり減るばかり。
終わりの危機はもう目の前だ。

忖度なんてやめて、自分の生を生き生きと生きて考えようではないか。



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