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承認する、どんな人間も、等価であることを

"どんな人間も、どんな他の人間とも「等価」である"。

美しくて溜息が出てばかりでなかなか読み進めることができないジャン・ジュネの『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』に所収のその表題作には、そう書かれている。

「どんなものも、その醜さ、愚かさ、意地悪さを超えて、愛されうる」と。

等価である

それは所謂「博愛」とはぜんぜん違うものだということはわかる。
そこにそんな人間的な偽善の色はない。

むしろ、そこにあるのはまさにジュネがいう「醜さ、愚かさ、意地悪さ」は他の人たちとそれらの特徴を持った人たちを根本的に分け隔てる理由になどならないという価値観だと思う。

それはいまの世の中でちょっとしたことですぐに自分と異なる人たちを罵り、蔑み、卑下し、糾弾することで、自分たちの正当性を守ろうとする態度とはまるで異なる。

そう感じればこそ、このように書くジュネの姿勢が果てしなく美しく思える。

それは、私のまなざしに捕らえられた、執拗な、あるいは素早いまなざしであり、それが私に、このことを説明したのである。そして、1人の男が、その醜さ、意地悪さを超えて愛されうるようにするものが、まさしく、この醜さ、この意地悪さを愛することを可能にしたのだ。

ジュネのような愛し方がいまの世の中にもあればよいのにと思う。

承認する

ジュネはちゃんとわかっていた。
「それは、私から出た善意ではなく、1つの承認だ」ということを。

そう、それは善などではない。善であろうとしたら、一方の側に悪ができてしまう。

そうではない。
その対象が醜くても、気に入らなくても、愚かに思えても、意地悪く感じられ嫌気がさしたとしても、その相手を承認できるということなのだ。
良いから認める、悪いから認めないということを超えて、"どんな人間も「等価」である"と承認することだ。

ジュネは、それをジャコメッティの彫像から感じとっている。

ジャコメッティのまなざしは、はるか以前から、このことを見ていた。そして、私たちに、そのことを復元してくれる。私は、私が感じ取ったことを述べている。彼の彫像によって明らかにされたこの親縁性は、人間存在が、そこにおいて、そのもっとも還元不可能なものへと連れ戻されるあの貴重な地点なのである。その存在の孤独は、正確に、どんな他者とも等価である。

すごく遠くに立った者の姿を見るかのように、どこまでも細く、細かなディテールの識別がむずかしくなったかのような輪郭をもつジャコメッティの彫像。確かに、その彫像同士はそれぞれ個性をしっかりと残しつつ等価であるように思う。ジャコメッティが「はるか以前から、このことを見ていた」というジュネの直観は正しい。

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そう見える以上のものではない

ジュネは同じものを、レンブラントの絵画にも見出している。
「レンブラントの秘密」という別のエッセイに彼はこう書いている。

何ものももはや、それがそう見える以上のものではないだろう、だが、そのことが、ひそかに、もっともみすぼらしい物質を照明するだろう。それはまさしく古い華美好みのまだ消えてはいない火だが、それが今は、画布と表象された物体の上にあるのではなく、なかに入れられたのである。

と。
「23歳の粉屋の息子」であるレンブラントはすでに「描くことを心得ていた」。しかし「37歳になると」レンブラントは「もう、どう描いてよいかわからなくなるだろう」。生まれた息子や娘が生まれてすぐ死んでしまう不幸が重なった後、妻であるサスキアにも先立たれたのがレンブラント36歳のときだ。肖像画の作品制作においても、彼が描こうとする方向性と、注文主の求めるものとの乖離が目立ちはじめた時期でもあった。

若い頃の華美な作風から、汚れて、みすぼらしいものも「そう見える以上のものではない」形で描きはじめた時期だ。後の新古典主義の芸術家が汚らしいと揶揄したレンブラントが登場してくるのがその頃だ。

そこにジュネは、ジャコメッティの彫像に見たものと同じものを見出す。

ゆっくりと、そしておそらくは自分でも判然としないままなされたこの作業が、彼に教えることになるだろう、どの顔にも価値があること、そしてその顔は、1つの人間的同一性へと帰着し――あるいは導き――、そしてこの同一性には他の同一性と同じ価値があることを。

僕は、レンブラントのこのみすぼらしい作品に惹かれる。

たとえば、「キリスト降下」という伝統的な画題において、キリストをこうもみすぼらしい姿で描いたレンブラントに。

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ミュンヘンでこの絵の実物を目にできたときは感動した。このあまりにただの人間として、他のどんな人間とも「等価」に描かれたキリストの姿に。

腐敗にも似ているように思えた何者かが

そして、また「小さな真四角に引き裂かれた便器に投げこまれた一幅のレンブラントから残ったもの」という長いタイトルをもった別のエッセイで、ジュネは自分自身のこんな体験について書いている。

腐敗にも似ているように思えた何者かが、私の古い世界観の全体に壊疽を起こしていた。ある日、客車のなかで、前に腰かけていた旅客を眺めていた私は、どんな人も他の一人と等価であるという啓示を得た。

こういうことなのだろうと思う。

どんな人間も等価であるということは、相手が、自分と同じ価値であると認めるのにふさわしいから、そうだというのでは全くないということだ。

腐敗にも似ているように思えた何者かを前にしてこそ、ジュネのような啓示は訪れる。それはジュネの彫像、レンブラントの絵画に描かれたもので、そこにはなんら親近感もないし、むしろ、決して交われないような遠さがある。
けれど、「どんな人間も等価である」のは、まさにそうした距離感を承認できてこそだろう。

ひとりぼっち

ジュネは書く。

おのれの周囲に、吐き気を催すような、黒々とした臭気を放つこと、自分でも錯乱しそうな、半ば窒息しかねないような臭気を。人々はかれから逃げ出す。かれはひとりぼっちになる。

と。

ひとりぼっちを自覚する他の人々との距離感。ジャコメッティの彫像の遠さ、レンブラントの絵画のみすぼらしい物質性。どんなに相手を蔑んだり批判したりしたくなったとしても、この遠さやみすぼらしさの絶対性には勝てない。それを認めずに、相手を避難したり貶めたりというのは、つまらなすぎる。

それよりも、その距離感をたがいにもつことを承認したとき、人はたがいにひとりぼっちであるという意味において「等価」になるのだと思う。

この美しい事実を忘れないようにしたい。


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