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お金を増やすことと気候変動の問題

表象と現実。

あるいは、言い方を変えれば、人間が扱いやすくするために用いる記号的なものと、記号によって示される元の現実にある物や出来事

たとえば、デザインが可能なのは、画面や紙の上でつくろうとしているものを図示したり、場合によっては物理的なプロトタイピングでも実物とは異なる素材やつくりかたで試作したりすることで思考できるからだ。
そうした図示やプロトタイピングによる代理的な記号操作を経ずに、直接、実物=最終製品をいきなりつくるのだとしたら、それはデザインという工程なしのいきなりの制作あるいは製造だ。

科学が自然について思考できるのも、記号的なものを用いたモデルを用いて思考できるからにほかならない。
実験にしても、「実」といいつつ、特定の制限のもとにモデル化したものを、記号的に再現してるのだから、プロトタイピングと変わらない。

そもそも、言葉を使って思考や伝達、コミュニケーションを行なってる時点で僕らは実物とは別の表象とともに日々を過ごしている。
それは食事をしたり、植物や動物、子どもを育てたり、洗濯したり掃除をしたり、介護をしたり看病したりという現実に直接的に手を出す活動とは別物だ。

もちろん、食事や育児、洗濯や掃除にだって表象的な面はある。
違いは、それらは表象だけでは成り立たないということだ。

だが、言葉という表象の道具以上に、物事を抽象化してしまうのが数字だ。科学が表象として用いるのは数字だ。科学は数学的にモデルをつくって思考する。

数字は、言葉にはまだ残っている物事の質的な面もすっかり捨象してしまい、量的なもののみを表象する。
だから、物理学といいつつ、物の質的な面は排除され、さまざまな量的な面のみが扱われる。
そういう数的な思考を「理」と呼ぶのは、どうかと思う。
せめて論-理も大事にしたいものだ。

だが、さまざまある数字のなかでもなによりも厄介なのが、お金だと思う。
数学や科学は苦手で近づこうとしない人でも、お金だけにはそれなりにうるさいということは少なくない。
なんでも安いとか高いとかが基準になってしまい、物の質や仕事の質は置き去りにされてしまう。

お金ほど、物事を暴力的に単純化してしまうものはない
今日書きたいのは、そのへんのことだ。

交換価値と使用価値

手始めに、デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』から、こんな一文を引用することからはじめてみよう。

貨幣の導入がもたらすあらたな次元、それは正確な量的比較を可能にする力である。貨幣を使うならば、この量の銑鉄はフルーツドリンク何杯分、ペディキュア何個分、グラストンベリー音楽フェスティバルのチケット何枚分と、同一の価値を表現することが可能になる。

お金は、なんでもかんでも量的に比較可能にしてしまう。この「なんでもかんでも」比較できるように乱暴さは数ある表象のなかでもお金特有のものだ。

ほかの数字も量的な比較を可能にするが、なんでもかんでもではない。重さをあらわす数字はいろんなものを重さで比較することは可能にするが、それだけだ。
重さが重要でなければその比較はなんの意味もなさない。
また重さだけでは判断の基準にならない場合もある。
たとえば、何かを飛行機や自動車などで運ぶとき、重さはOKでも、長さや高さという大きさの面で運べない(運送のためのスペースに載らない)ということはある。

しかし、お金による乱暴な比較は、それでなんでもかんでも同じ価値基準ではかれるかのようにしてしまう。
それによって、まったく異なる使用価値をもつ2つ以上の複数の事物を、別の価値(交換価値)によって比較可能にし、交換、流通を可能にする

グレーバーはこう書いている。

現在使われている英語では、しばしば単数形の「価値(value)」と複数形の「諸価値(values)」とが区別される傾向にある。金の価値、豚バラの価値、骨董品の価値、金融派生商品の価値などというときは、単数形の「価値(value)」が使われるのに対し、家族、宗教道徳、政治理念、美、真実、尊厳などにかかわるばあい、複数形の「諸価値(values)」が使用される。

まさに、ここでいう「価値(value)」は、お金ではかった価値だろう。ゆえに乱暴なまでにひとつの比較可能な価値とされるゆえに単数形で表現される。

一方の「諸価値(values)」のほうは、文字どおり、ひとことで価値といっても、家族の価値と、美しさの価値、政治理念の価値、自然環境の価値などは、それぞれに別物で比較にならない=プライスレスなものだから、複数形で表現せざるを得ない、諸々の価値となる。

まさに「諸価値」の領域には欠落しているものがこれである――ある芸術作品は他の作品よりも美しいと主張したり、ある宗教の信者は他の信者よりも信心深いということはできるかもしれないが、それがどの程度なのかを問うことや、この修道士はそれ以外の修道士より5倍信心深いだとか、このレンブラント作品はあのモネ作品の2倍すばらしいなどと発言することは奇異に響くだろう。

と、グレーバーが書いているとおりだ。

本来、価値というものはさまざまあり、その質的な面からいえば、到底一律に横並びにして比べられるものではないのだ。

私財の増大は、公富の減少によって生じる

カール・マルクスが価値(交換価値)と使用価値を区別したのも同じことだ。

『人新世の「資本論」』で、斎藤幸平さんはこう書いている。

マルクスの用語を使えば、「富」とは、「使用価値」のことである。「使用価値」とは、空気や水などがもつ、人々の要求を満たす性質である。これは資本主義の成立よりもずっと前から存在している。
それに対して、「財産」は貨幣で測られる。それは、商品の「価値」の合計である。「価値」は市場経済においてしか存在しない。

使用価値と価値(交換価値)は、ここでは富と財産とも言い換えられる。
つまり、富んでいるとは必ずしも財産が多いこととは限らないということだ。
しかも、そのことによって、グレーバーが『ブルシット・ジョブ』で指摘していたような世の中に役立つ仕事ほど価格もそれに携わる人たちの報酬も低く、逆になくなっても社会は特に困らないような仕事の価値が高くなるという矛盾も生まれいる。

斎藤さんは、19世紀初頭の経済学者ローダデール伯爵の『公共の富の性質と起源』(1804年)を参照し、富と財の矛盾しあう性質について、こんな風に書いている。

この矛盾は、現在では「ローダデールのパラドックス」と呼ばれている。その内容を一言で要約すれば、「私財の増大は、公富の減少によって生じる」という逆説である。
ここでいう「公富」とは、万人にとっての富のことである。ローダデールはそれを「人間が自分にとって有用あるいは快楽をもたらすものとして欲するあらゆるものからなる」と定義している。
一方、「私財」は私個人だけにとっての富のことである。それは、「人間が有用あるいは快楽をもたらすものとして欲するあらゆるものからなるが、一定の希少性を伴って存在するもの」として、定義される。
要するに、「公富」と「私財」の違いは、「希少性」の有無である。

公の富と、私の財。

そこの間には「希少性」しかなく、つまり、公富が私財化されることにによって人工的に希少性が付加されると、それが欲望を駆り立て交換のサイクルをまわすエンジンの役を果たすようになる

だが、それが加わることで、もとの使用価値のほうにはなんら変化はない。
使用価値は同じなのに、人工的な希少性によって、交換価値=貨幣的価値があがった風にみせる。

使用価値を失った投機商品

いや、問題は、交換価値をあげる過程で、使用価値が減る場合すらあるということだ。

わかりやすいのは、土地や水という資源を、公の富とするか、私財として扱うかというケースだ。

土地にまつわるいつわりの希少性ということでは、斎藤さんは、こんな例を出している。

資本主義が生み出している欠乏の典型例が土地だろう。ニューヨークやロンドンをみればわかるように、小さなアパートメントの一室の不動産価格が数億円に上るケースも多く、家賃にしても毎月数十万円の物件はざらで、広めの物件ともなれば、数百万円はくだらない。そうした不動産が居住目的ではなく投機の対象として売買されている。しかも投機対象の物件は増えるばかりで、誰も住んでいないアパートメントも多い。

投機の対象として扱われるようになったアパートメントは、貨幣価値(交換価値)が上がる一方で、誰も住んでいないのだから逆に使用価値はゼロになる。

こうした不動産に限らず、投機対象の商品は、ほとんどが使用価値はゼロだ。

これは役に立つ仕事の報酬が安く、役に立たない仕事の報酬が高くなるというブルシット・ジョブ現象の、品物版だ。
投機の対象のアパートメントはまさに、ブルシット物件になる。

土地が私有化されることで、交換対象となり、いつわりの希少性が度を越して、このように投機の対象として貨幣的価値の高騰にばかり目を向けられるようになると、元の使用価値まで失われる。

水などでも同じだ。
特に水が潤沢にある日本において、ペットボトルに入れて水が売られるようになると、その交換価値の総数は増えるかもしれないが、使用価値はむしろ減る。

それがローダデールが言っていた「私財の増大は、公富の減少によって生じる」の意味するところだ。

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コモンの解体

マルクスも同じように公共の富が私有化されて、使用価値が金銭的な財へと変換されてしまう過程で公共の使用価値が減ずることを問題視し、それゆえに資本主義を問題視していたのである。

ふたたび斎藤さんの本から引く。

この囲い込みの過程を「潤沢さ」と「希少性」という視点からとらえ返したのが、マルクスの「本源的蓄積」論なのである。マルクスによれば、「本源的蓄積」とは、資本が〈コモン〉の潤沢さを解体し、人工的希少性を増大させていく過程のことを指す。つまり、資本主義はその発端から現在に至るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたのである。

公共の富(土地や水)の潤沢さが、私有化によって分割され、その過程で希少性が付与されることで、誰もが土地や水の恩恵に預かれていた状態から、一部の富裕な人のみしか恩恵を得られなくなる。

元の使用価値そのものはすこしも変わっていないはずなのに、交換価値が邪魔して使用量が減ったりすれば、総体としての使用価値は減ずる。
すくなくともお金がなくて、その価値にアクセスできない人は、富(土地や水の恩恵)に与れなくなり、生活が貧しくなる。

ニューヨークやロンドンの地価が上がりすぎて、一部の超富裕を除けば誰も住まなくなるという社会の貧しさがつくられる。

人工的に生み出される貧しさ

デヴィッド・グレーバーがこんな風に紹介している、マルクスの指摘が、使用価値から交換価値へのシフトというこの変化がどういう意味をもつかを物語っている。

カール・マルクスは、かつてつぎのように指摘した。産業革命以前には、最大の富はどのような条件においてつくりだされるのかという問題について本を書こうなどという発想は、だれの頭にも浮かぶことはなかった。しかし、最良の人間がどのような条件においてつくられるのか――すなわち、友人や恋人、仲間や市民として共にありたいという気持ちを抱かせるような人間をつくりだすために社会はどのようにあるべきなのか、については多数の書物が著されてきた。アリストテレスや孔子、イブン・ハルドゥーンが関心をよせた問題はまさにこれであり、つまるところいまだ真に重要なただひとつの問題がこれなのである。人間の生活とは、人間としてのわたしたちがたがいに形成し合うプロセスである。極端な個人主義者でさえ、ただ同胞たちからのケアとサポートを通してのみ、個人となる。そしてつきつめていえば、「経済」とは、まさに人間の相互形成のために必要な物質的供給を組織する方法なのである。

産業革命以前には、「人間の相互形成のために必要な物質的供給を組織する方法」であった経済が、なぜか、その後には、お金がお金を増やすことばかりを追求し、それを経済成長と呼びながら、一部の富裕層ばかりが資産を増やし、それ以外の人は搾取される形で貧しさを増していくという格差社会を生み出す原動力となってしまった。

経済成長の追求は、このパンデミック環境下においては、経済をまわすということの必要性を声高に論じることで人々の――特に貧しい人々の――生命や健康など大したことではないかのように扱うほどだ。

そういう社会の方向性は、グレーバーが紹介するこんな例にも明確にあらわれてしまっている。

イギリスにおいては「緊縮政策」の8年間に、看護師、バスの運転手、消防士、鉄道案内員、救急医療スタッフなど、社会に対し直接にはっきりと便益をもたらしているほとんどすべての公務員の賃金が、実質的に削減された。その結果、チャリティーの食料配給サービスで生計を立てるフルタイムの看護師があらわれるにまでいたったのである。ところが、政権与党はこの状況をつくりだしたことを誇りに感じるようになっていた。看護師や警察官の昇給を盛り込んだ法案が否決されたとき、歓声をあげた議員たちがいたくらいである。この政党はまた、その数年前には、世界経済をほとんど壊滅に追い込んだシティの銀行家たちへの補償金を大幅に増額すべきという大甘の見解をふりまわしたことで悪名高い。にもかかわらず、その政府の人気は依然として衰えを知らなかったのである。

まさに、これはいまの社会における貧しさが人工的に生み出されているという証拠というほかないだろう。

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交換価値への執着

このような、使用価値より、交換価値を重視し、生活の質や幸福度をあげるためではなく、単に貨幣的な価値としての利潤の追求を重視する資本主義的な意味での経済成長を目指す社会になったのが、プロテスタントたちの思想の影響であることは、マックス・ヴェーバーが100年も前に指摘したことだ。産業革命がこれほど社会を変えることが可能になったのも、イギリスにおいてプロテスタントたちが力を持ったことと無関係ではない。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、ヴェーバーはこう指摘している。

プロテスタンティズムの世俗内的禁欲は、所有物の無頓着な享楽に全力を挙げて反対し、消費を、とりわけ奢侈的な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は心理的効果として罪の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放った。利潤の追求を合法化したばかりでなく、それを(上述したような意味で)まさしく神の意思に沿うものと考えて、そうした伝統主義の桎梏を破砕してしまったのだ。(中略)肉の欲、外物への執着との戦いは、決して合理的営利との戦いではなく、所有物の非合理的使用に対する戦いなのであった。

所有物の「非合理的使用」というときの合理性が問題なのだ。もともと来世の幸福のために現世での禁欲を重視してきたキリスト教社会において、プロテスタントの当時以降、享楽的な消費は相変わらず禁じられつつも、自分が得た財を無駄に浪費するのではなく、蓄財的な視点で無駄なく投資し資産を増やすことは、「神の意思に沿うもの」として考えられるようになったのは、ルターの「天職」という考えやその後のカルヴァンによる予定説との関連から現世における勤労の価値が高まったことによる。

グレーバーもこんな風にそれを指摘している。

イングランドのカルヴィニスト(「ピューリタン」は、かれらを嫌悪する人びとによってあてがわれた名称である)は、親方層やあたらしく形成されつつあるプロレタリアートを雇用する「開明的な」農民層から支持される傾向にあり、かれらの称える「マナー改革」は、民衆の祝祭や賭け事、飲酒、そして「若者たちが一時的に社会的身分関係を逆転させるような無礼講をともなう年中行事のすべて」をとくに標的としていた。ピューリタンの理想は、そのような「主人なき男たち」をかき集め、敬虔な世界の厳格な規律のもとにおいて、家父長の指導によって仕事と祈りを叩き込むことであった。

働くことが天の意思とされ、しかし、現世において物欲(使用価値)に溺れることは引き続き禁じられれば、仕事の意味は、金銭(交換価値)で評価されるほうに傾く。

まさにヴェーバーが次のように指摘したとおりだ。

たゆみない不断の組織的な世俗的職業労働を、およそ最高の禁欲的手段として、また同時に、再生者とその信仰の正しさに関するもっとも確実かつ明白な証明として、宗教的に尊重することは、われわれがいままで資本主義の「精神」とよんできたあの人生観の蔓延にとってこの上もなく強力な槓杆とならずにはいなかったのだ。(中略)利得したものの消費的使用を阻止することは、まさしく、それの生産的利用を、つまり投下資本としての使用を促さずにはいなかった。

モノの使用価値に対しては禁欲的になる一方で、得たお金を資本として投資し「増やす」ことが神の意思に沿うものとされる。

まさに生活そのものにおける価値とは無関係な、価値基準によって世の中がまわりはじめる。生活そのものをよくすることより、お金を増やすことが良いことであるかのように変わりはじめたのだ。

資本主義による転嫁

共用物を私有化し分割して供給する商品として提供することでいつわりの希少性を生み出すこと。

財を私有化する側はその販売によって利益をあげるが、それを購入する側は本来共用物として無償で手に入れられるものを高い対価を払って手に入れなくてはならなくなり、生活は困窮する。

ひどい場合は、それを手に入れるためのお金がなく、どんなに生活必需品であっても、手に入れられない人がすることにもなる。

このコロナ禍で予防のために手を洗うことも、水が手に入らなくてできない人が世界にはいることが明らかになったばかりだ。

まさにマルクスが「資本主義はその発端から現在に至るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきた」と言ったとおりだ。

一部の人の財は、ほかの多くの人の富を犠牲して、彼らに損益を転嫁することで多くの人を貧しくすることで成り立っている。

しかし、資本主義がみずからの経済成長(富ではなく財の拡大)を目指すために、マイナスの影響を転嫁するのは、ほかの人間たちに対してのみではない。

資本主義がみずからの利を得るために、地球環境からも搾取し、負の影響を転嫁していることは、僕らももう痛いほど、わかっていることだ。

斎藤さんは、こんなことを書いている。

資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そして、その過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間からの収奪を行ってきた。この過程は、マルクスが言うように、「際限のない」運動である。利潤を増やすための経済成長をけっして止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。
その際、資本は手段を選ばない。気候変動などの環境危機が深刻化することさえも、資本主義にとっては利潤獲得のチャンスになる。山火事が増えれば、火災保険が売れる。バッタが増えれば、農薬が売れる。ネガティブ・エミッション・テクノロジーは、その副作用が地球を蝕むとしても、資本にとっては商機となる。いわゆる惨事便乗型資本主義だ。

パンデミックに被害だろうと、気候変動に起因する大雨や山火事による被害だろうと、行きすぎた開発――しかも、生活的必要性(富)のためではなく、経済成長という単なる交換価値(財)のための――の結果であるのは明確であるのにもかかわらず、経済を止めてはならないという主張のもと、止まることなく進められる。

もちろん、この気候変動を止めるためには、僕らの生活そのものを変えなくてはいけない。

だが、しかし、それ以上に社会に何の役にも立たないブルシット・ジョブや投機的で使用価値をもたないブルシットな商品がこれだけ大量にあるのだとしたら、お金を増やすこと以外には何の役にも立たないそれらこそをなくさないとダメだ。

そんなもののために、貧しい人々がより貧しくなったり、気候変動の影響を受けて生活や生命が危機に晒されるのは、あまりにブルシットすぎる。

僕らはあらためてこうしたことをちゃんと学びなおすことで、自分たちの暮らしを取り戻していかないといけない。



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