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開かれ/ジョルジョ・アガンベン

まさかアガンベンの本を2冊続けて読むとは思わなかった。

けれど、1つ前に読んだ『書斎の自画像』という自伝的な1冊を読んだら、
その中で話題に上がった本の1つである、この『開かれ』も読みはじめずにはいられなかった。

すでに買って置いてあったことが理由の1つ。
もう1つの理由は、もう一冊同時に読み進めているウィリアム・ウィルフォードの『道化と笏杖』でテーマに上がる普通の人間とは異なるフール=道化ということと関係して、この本のサブタイトルである「人間と動物」ということについて考えてみたくなったからだ。

その思考の一部はすでに1つ前のnote「持続可能性と「人間」の外にあるもの」でも展開している。
そこでも書いているが、この年の瀬に来て、今年読んだいろんな本の内容が僕のなかで大きなつながりを見せている。そのことについてはあらためて書きたいが、そのつながりの1つのキーとなる本と言えるのが、この『開かれ』だった。

読んだのは5冊目となるアガンベンの本。
ここでその内容について僕自身が気になったことを中心にすこし紹介したい。

動物は放心する

アガンベンは、この160ページほどの小さな本の比較的多くの部分を、ハイデガーの動物と人間の違いについての考察に捧げている。
『書斎の自画像』を紹介したnoteでもすこし触れたが、若い頃、アガンベンは晩年のハイデガーとの交流を持っていて、ハイデガーの思想から影響を受けている。そのことについて知りたかったのも、今回この『開かれ』を読もうと思った理由のひとつだ。

そのハイデガーは、生物学者ユクスキュルが『生物から見た世界』などで展開している環世界という考え方の影響を受けつつ、「動物は放心する」と言っている。

ユクスキュルの環世界とは、それぞれの動物が見ている世界は、それぞれの動物にとってのそれぞれの世界であり、他の動物は人間が見ているように世界を認識していないといったことを提唱するものだ。
例えば、ハエとクモが見ている世界は異なり、ハエにはクモの糸が認識できないため、自分が何に囚われ身動きとれなくなったかも理解できないまま、クモの餌食となる。

ハイデガーは、ユクスキュルが行ったミツバチに関する実験について言及している。蜂蜜をいっぱいに充したグラスの前にミツバチを1匹置いてみるという実験だ。
実験では蜜を吸いはじめた後、ミツバチの腹部を切断する。するとミツバチは自分の腹から蜜が漏れるのも気づかず、蜜を吸い続けるというのだ。
もちろん、ミツバチが気づいていないのは腹から蜜が漏れていることだけではない。自分の腹が切られていることにさえ、ミツバチは気づいていないのだ。
それだけ蜜に夢中なのであり、自分が何をしているかさえわかっていないのだ。つまり、放心状態というわけだ。

ハイデガーは次のように書いている。すなわち、「何かを何かとして知覚する可能性そのもの」が動物からは剥奪されているがゆえに、「そして、いまここでだけ、ということではなく、まったく与えられていないという意味で剥奪されている」がゆえに、ここで生じているのは、知覚することではなく、本能的な振舞いだけなのである、と。

ミツバチは蜜を吸おうとして吸っているのではない。
それは本能であり、そこには意志も認識もない。
何かを何かとして認識する可能性そのものが動物からは剥奪されていて、本能を刺激するものが目の前に置かれれば、腹が切り落とされていようが、刺激に対して自動機械的な反応を示すしかないし、それを途中で止めることはできない。
夢中なのだ。

その可能性が動物からは根源的に剥奪されているがゆえに、動物は放心するのである。

動物は何かを好んでやることも、意味を理解して行動することもない。
選択肢がないのだ。
ハイデガーのいう動物の放心とはそういう意味である。

人間は倦怠する

一方の人間はそうではない。
そのことに言及する際に、ハイデガーが持ちだす例が興味深い。

ハイデガーはまわりに何もない田舎の駅で電車を待つシーンを思い浮かべるよう僕たちを促す。次の電車まで4時間以上先なのだが、まわりに見るべきものも、お店もなく、当然ながらインターネットもスマホもない。
そのあたりをぶらぶら歩いてみるが、さて、どれだけ経ったかと時計を見れば10分も経っていない。別のことをしてみるが、それでも30分も経っていなくて唖然とする。

それがハイデガーのいう世界を前にした人間の「倦怠」であると、アガンベンは説明している。

われわれが気晴らしで時間をつぶそうとするのは、空虚のままに残されてあることが倦怠の本質的体験であることの証である。われわれはふだんいつもさまざまな事物によって、そしてさまざまな事物のなかで時間を費やしている――むしろハイデガーは、動物とその環境との関係を定義することになる用語を先取りするような言い回しによって、「われわれは諸事物にとらわれ、それらに熱中さえし、しばしばそれらに放心さえしてしまう」ことを解明しているのだが――一方で、ひとたび倦怠に陥ると、たちまちわれわれは空虚のなかに放置されてしまうのである。

動物は環境のなかにある刺激物を前にすると夢中になって放心状態になるが、人間はその反対に世界を前にして何もすることがない倦怠感のなかに放置される。先の4時間後にしか次の電車が来ない田舎の駅に放り出された場合のように。

動物は意味がわからないまま、いったんスイッチが入ってしまうと環境の側がスイッチを切ってくれないかぎり、その行動をやめられないが、人間の側は逆に自分自身で世界に意味を見出し、それとの関わりに意味づけをしない限り、なんら行動もできない。

この空虚のなかで、諸事物はたんにわれわれから「取り去られ無にされる」わけではない。つまり、諸事物は存在するのだが、「われわれに差し出されるべき何ものももっていない」のであり、われわれとは完全に無関係なままにとどまっているのである。

動物は事物に囚われ放心状態になるが、人間は逆に事物と無関係なまま取り残されて倦怠感を感じる。

人間も、動物同様、事物から解放されるわけではない

この差が動物と人間の差であると同時に、ここにこそ、動物と人間の共通点があることをアガンベンは指摘する。「だが、そうだからといって、われわれはそれら諸事物から解放されるわけではない」とアガンベンは言うのだ。

というのも、われわれは、われわれを退屈させるものに釘づけにされ足止めされてしまうからなのだ。「何かに退屈させられてしまうと、われわれはうんざりした当のものに引き止められ、それを放っておくわけにはいかなくなる、あるいは、なにがしかの理由からそれに拘束され束縛されてしまうのである」。

動物のように、なんらかの行動に夢中にさせられるわけではないが、かといって、人間が解放され自由に振る舞えるわけではない。なぜなら退屈に支配され、拘束されるからだ。いうなれば、退屈を前にして、それを補う方法を考えることに夢中にならざるを得ない。それが人間の放心ともいえる。

ユクスキュルがダニが哺乳類の血を吸うしくみについて説明しているものがある。

ダニが血の味を好んでいるとか、あるいは、すくなくとも血の味を知覚するための感覚を備えているとかといったことを期待するとしても、それは、至極当然なことだろう。だが、まるでそうではないのだ。ユクスキュルが伝えるところでは、研究室でいろいろな種類の液体を満たした人工膜を使って実験を行なった結果、ダニがまったく味覚を欠いていることがわかったという。ダニは、温度に狂いがなければ、つまり、哺乳類の血液と同じ摂氏37度でありさえすれば、どんな液体にも貪るように吸いつくのである。

動物は、ある条件に対して1対1対応するような囚われ方をするが、人間の場合、反応の仕方に自由度はあるものの、その意味をつねに考え見いださなくてはならないという囚われ方をしているのだろう。

動物の場合も、ミツバチが蜂蜜そのものを結局認識できないまま、ひたすら吸い続けるという意味で対象から拒絶されているのと同様に、人間もまた対象に対する真の理解を得られず、自分自身で意味を見いださなくてはならないという意味で拒絶されている。

けれど、この拒絶自体に、動物にしても、人間にしても、自己のなかに閉じてしまういことなく、対象を通じて環境や世界に「開かれ」ていることになる。

「拒まれている存在者に引き渡されて」いることこそ、倦怠の本質をなす第一の契機であり、この状態において、存在者を構成する構造――現存在――が顕現する、そして、現存在にとって、その存在そのものが、その存在のうちで危険に曝されている。倦怠において現存在は、存在者に釘づけにされるかもしれないが、この現存在にとって、存在者はその全体において拒絶されている。というのも、存在者は構成上「その存在そのものにゆだねられている」のであり、配置された世界のうちへと人為的に「企投され」、「置き去りにされている」ものだからである。しかし、だからこそ倦怠は、現存在と動物との思いがけない近似性を明るみに出す。「現存在」は、退屈することによって、現存在から拒まれている何かへと引き渡されるのであり、まさしく放心における動物のように、露顕されざるもののうちに曝されるのである。

この意味で、カントが「物自体」ということで、精神と物質の断絶といった二元論を想定したことを、ハイデガーが「存在者に拒まれる」ことをもって「開かれ」うるのだと読み替えたことに意味がある。なぜなら、それが道化=フールといった境界的な存在がもつ意味、動物/人間の境界があいまいになって、ともに環境や世界に拒まれつつ開かれる存在であるということの意味がわかるからだ。

宙吊りが可能にするフールたちの不可能性

アガンベンは、倦怠について、次のようにも書いている。
倦怠における宙吊り状態になることの意味について。

深き倦怠の第二の本質的な特徴である宙づりのまま保持されてあることとは、特定の具体的可能性すべてを宙づりにし、奪取するなかで、還元的な可能化(すなわち純粋な可能態=潜在性)がその真価を露わにしてくるという体験にほかならない。

と。

この宙吊り状態によって露わになる可能性というものこそ、道化=フールたちがみせる意味が無意味化した空間と同じだ。そこでは通常の意味が壊れる代わりに、通常では起こり得ない事柄があらわれくる。
しかし、そこで起こることすべては何も可能にならないということを可能にしているかのようなものでもある。
ある意味、宙吊りにされることで可能性は不活性化するのだ。

可能性の不活性化においてはじめてそれ自体として立ち現れてくるものとは、すなわち、可能態=潜在性の起源そのもの――さらには、現存在の、つまり、存在可能性の形式のうちに実存する存在者の起源そのもの――なのである。だが、この根源的な可能態や可能化は――まさにそれゆえに――否定の可能態、つまり、無能性を構成する。というのも、できないこと、人為による個々の特定の可能性を不活性化することから出発してのみ、この根源的な可能化は可能だからである。

構成される無能性。まさにフールたちの振舞い以外の何ものでもないだろう。それは通常において可能な特定の可能性をカッコに入れたとき、はじめて出現するフールな可能性の可能化なのだ。

このあたりの境界的な領域における可能性を閉じたところに、日常の人間的な意味はあらわれる。そこで閉じられ、分割され、捨てられるのが動物であり、自然であり、道化たちやカーニヴァルであり、だからこそ、その分割や捨象の態度が持続可能性において問題とされるのだ。

といったようなことも含む内容で、とても興味深く読めた。面白かった。
150ページほどの小編。
アガンベン入門としてもちょうど良いかも、と思うし、アガンベンがここで展開する動物と人間の境が曖昧になる思考は、「自然なきエコロジー」としてティモシー・モートンが提唱しているダークエコロジーといった考えにもつながり、違った角度から持続可能性の問題を捉える意味でも良い。おすすめだ。

ところで、ほぼ2年前の2017年12月23日に書いた「瞑想の対象が欲望の対象に」というnoteが、僕の最初のnoteだ。

そのnoteを昨日見返してみたら、アガンベンの『スタンツェ』について書かれていた。僕が読んだ2冊目のアガンベンの本だ。
「ジョルジョ・アガンベンの「知の巨人」ぶりに圧倒されている。いま読んでいる『スタンツェ』における知の編集の仕方は大いに好みだ」と書いている。
その好みは2年を経ても変わっていない。

2年経って5冊目のアガンベンを読み、noteの数は311記事目になった。
アガンベンへの理解は深まったが、言ってること、考えてることはさほど変わっていないようだ。

来年以降もこの調子でいろんな本を読み、いろんなことをnoteに書いていきたい。


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