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やりたいことをやるためのスーツ

「スーツがないとダメならスーツを着る資格はない」

映画『スパイダーマン:ホームカミング』の劇中、「スーツなしじゃ僕はなにもできない」というピーター=スパイダーマンに対して、トニー・スタークが言う台詞。
これって、ヒーローのスーツに限らず、他にもさまざまな人間の機能拡張ツールやメソッドに対して言えることだ。

スーツの力を本当の意味で知るためには、スーツを着ていない時の自分の力をよく知っている必要がある(理論的にそうであるはずという話。だって、ヒーローのためのスーツなんて着たことないから)。
生の状態での自分の力への一定の理解があってはじめて、+スーツによって何が可能になるのかを正確に把握できるんだと思う。

少なくとも、スーツなしでも「ヒーローとして生きる」という思いがない限り、どんなに性能の良いスーツを着てもヒーローとしては失格だ。

同じことが、いろんな道具、いろんな手法、とにかく人がそれを使うことで自分たちの機能を拡張しようとするすべての人工物(物理的でないものも含めて)に言える。

有用性>効率性

すこし話は変わるが、国際規格のISO 9241-11ではユーザビリティを「特定の利用状況において、特定のユーザによって、ある製品が、指定された目標を達成するために用いられる際の、有効さ、効率、ユーザの満足度の度合い」と定義している。

道具のユーザビリティは、これに従えば、利用状況、ユーザー、目標が特定された状態において、ちゃんと目標を辿り着ける有効さが確保されているか、目標にどれだけ最短距離を通ってたどり着けるよう効率的な設計がされているか、さらにそれを使って目標を達成するまでの心理的な満足度にマイナスの影響はないかという観点で評価可能だということになる。

だから、ユーザーが違えば同じ道具でも、有用性、効果、満足度は異なる。同じ刺身包丁のユーザビリティは、寿司職人と素人では違うはずだ。
それだけでなく、利用状況によっても異なるのだから、同じ刺身包丁を同じ寿司職人が使うのでも仕事で使う場合と、プライベートで使う場合でも異なって良い。

つまり、ユーザー、利用状況が変われば、目標は異なり、それゆえにまず有効さの基準が変わる。目標と有効さはイコールでないとそもそも意味がないわけで、自分が目標にしてないことを可能にするツールなんて何の役にも立たない(有用性がない)。

ここが肝だ。
いくら効率や満足度に優れたツールであろうと、そのツールでなしうることそのものを有用だと思わないユーザーにとっては、意味がないのだから。
どんなに切れ味良く使い勝手にも優れた刺身包丁だろうと、紙を裁断しようとしているユーザーにとっては何の意味もない。敵と戦い、人を救おうという気持ちのない人に、スターク・インダストリーズ製のスパイダーマン・スーツは無用の長物だ。

よくある勘違いは、有用性の尺度を無視して、ツールの使い勝手を論じてしまうことである。何のため?を問うてはじめて、適切な設計かどうかが論じられるようになるということは案外忘れられがちだ。

スーツがないとダメ

道具の良し悪しは、その道具がそれを使う人のやりたいことに合ってるかどうかでしか決まらない。
だから、逆に言えば、その人自身にやりたいことがなければ、どんなツールも、方法も、手助けも何の役にも立たないということになるのではないかと思っている。

自分でやりたいことを見つけられない以上、外に優れた道具や考え方などの手助けを求めても、ぴったりのものには出合えない。
結局、ツールだろうと方法だろうと、それを使う人が元から持っている「やりたいことの実現する力」を増幅させてくれたり、肩代わりしてくれたりするだけで、元の「やりたいこと」自体がないのであれば、増幅も肩代わりもしようがない
ゼロに何を掛けてもゼロだという話である。

やりたいことがない人に唯一役に立つものがあるとすれば、これを「やってくれ」という指示だろう。もちろん、その場合も言われた側が素直にその指示を受け入れるかどうかに関わっている。やりたいことがない割には、やりたくないことはいろいろある人は世の中たくさんいる。

だから、スーツがないとダメだというピーターはまだマシなのだ。
彼の場合、優先順位の認識が間違っていただけで、それは経験を経てトニーに言われたことを理解していくうちに訂正される。

ピーターにはやりたいことが元からあった。
スーツがなくても元からあった。

スーツがないとダメなわけではなかった。

好奇心がないと未知に出合えない

先のユーザビリティの定義に戻って考えると、スーツがユーザブルなものかどうかはどういうユースケースでどんなユーザーが使うかが決まらないと判断できないわけで、結局のところ、ユーザビリティというのは既知の領域でしか当てはまらない。

だから、当たり前のことで、スーツの用途が既知(あるいは想像の範囲内)でない限り、スーツは設計不可能で、それゆえ存在し得ない。
つまり、「スーツがないとダメ」と言ってしまえること自体、既知の事柄しか想像していないということでもあり、未知への配慮が決定的に欠けているということにもなる。

自分が何をやりたいかは、未知
けれど、道具への要求は、既知の範囲で思考する。

この決定的とも言える非平衡。
内には優しく、外には厳しいというバランスの欠けた姿勢。
なかなかむずかしいものがある。

決まっていないと動けない。
わからないとやりようがない。
外に対しては、そう要求しながら、自分自身に対しては、やりたいことを「決める」、「わかる」ができない。どうして、そんな非平衡な状態であることを自身に許してしまうのだろう?

ただ、そうなると1つ前の「他人の言葉はあなたのものではない」で書いたように、

もらうことに慣れすぎた大人の雛鳥たちは、もらう餌の味ばかりにうるさくなって、もらってる立場のくせに餌の味に文句ばかり言うようになってしまう

という形に陥ってしまう。
そんなつもりではないはずたから、残念だ。
どうしたら、そこから抜け出すことができるのだろうか?

機械には好奇心がない

菅付雅信さんの『動物と機械から離れて』を読んでいて、こんなことが書かれているのが気になっていたが、やりたいことがない、見つからないというのは、まさに「好奇心」が欠けていることの問題であるように思う。

「ALIFE2018」のなかで、特に興味を惹かれたのが、ケネス・O・スタンレーのものだった。「未知を検索する」という彼の講演テーマは、現在の検索万能主義に警鐘を鳴らし、かつ機械の自律性について優れた視座を提唱していた。スタンレーいわく、「機械には好奇心がない。しかし好奇心がないと、未知なるものとは出合えない」。

キーワード検索では本当の意味で未知のものとは出合えない。
キーワード検索のように、自分がすでにキーワードを知っているという形では知っている領域について知るということと、自分では思いもよらない存在に出くわすような知り方とは、そもそも探索の仕方が違うのだ。未知との付き合い方について考える必要がある。

この場合、キーワード検索は、何だかわからないまま、道具を要求し、実際道具をもらっても良し悪しもわからない状態に近い。
一方とりあえず、いろいろ未知のものにもチャレンジしながら、自分の興味のあるものを見つけていくやり方は、トニーのスーツなしで戦うピーター=スパイダーマンの姿に重なる。未知のなかで戦う体験のなかでこそ、自分がやるべきことは何で、必要なスーツは何かということもわかってくるのだと思う。

この順番を間違えてしまってはいけない。
好奇心は大事だ。

何をしたいかを探す前に、道具に、方法に、ルールに、仕組みに、ガイドブックやマニュアルに、頼ろうとするから、何も自分に合ったものを見つけられないのだ。だって、目をつぶったまま、ああでもないこうでもないと言っているようなもので、見えていないのだから。

まずは自分の目を見開いて、自分自身の立ち位置やら姿やらをよく見て把握してからだろう。少なくとも、やりたいことがないなら、やりたいことをやる資格はない、のだから。

やりたいことといって重く考えるのが良くないのだろう。
好奇心のアンテナをちゃんとはって、フットワーク軽くていろんなものにチャレンジすることが大事だなとあらためて思う。
やりたいことなんて、いくつあっても、どんどん増えてしまってもいいのだし。

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