消費者と倦怠
消費者的。
僕らはただ待っているばかりで、期待するものがなかなか現れないと、それが当然の権利とばかりに不満をもらす。ウェルビーイングと言いながら自分に都合のよい良い現実をさも当たり前のように要求し、その実現にすこしでも障害になりそうなものがあればみずからは大した努力もしでもいないのにここぞとばかりに罵声を浴びせる。
いったい僕らは、どうしてこんなにもお気楽で傲慢な要求ばかりするのを当然の権利だと勘違いするようなご立派な身分になってしまったのだろう?
巣の中でピーチクパーチクとうるさく騒ぐ雛鳥のように、みずからの要求が叶うまで苛々と待ち続けることを当然だと考えるようになってしまったのだろうか。
ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』の「D:倦怠、永遠回帰」と題された章のエピグラフに、ヴィクトル・ユゴーのこんな言葉が引用されている。
待つこと、それが人生となったのはいったいいつ頃からのことなのか。まさに、ユゴーの生きた時代(1802-1885)からというのが、ひとつの答えであるはずだ。
集めて並べて意味=価値をつくる
さまざまな物品を集めて展示される博覧会がパリではじめて行われたのが、1798年。
それから回を重ねながら、1851年にははじめての国際博覧会としての万国博覧会がロンドンで開催される。あのクリスタルパレス(水晶宮)がつくられたことで知られる最初の万博だ。
人びとは万博でお目見えする新しい技術によってつくられる煌びやかな商品の織りなす未来を心待ちにするようになる。
バーゲンセール、ショーケースによる展示、定価の値札つきの販売といったいまに通じる販売形式を引っ提げて世界最初の百貨店としてボン・マルシェが誕生日したのは1852年のことだ。
ある意味、万国博覧会で並ぶ品々に、値札をつければ百貨店になる。両者が同時代に誕生したのは何の不思議もない。それらは一足先に18世紀に生まれた「集めて並べて意味を生みだす」形式であるミュージアム(博物館、美術館)の大量生産品向けに最適化された発展形である。大英博物館が1753年、ルーヴル美術館が1793年の開館といえば、時代の流れがイメージできるだろうか。
これに、産業革命による大量生産が重なって、万国博覧会や百貨店という集めて並べて意味=価値を成すシステムが生まれ定着する。
人はそれらの意味ない価値を見て、魅了され、もっともっととおねだりするようになった。まさに巣の中の雛鳥のように。
だからこそ、ベンヤミンは「D:倦怠、永遠回帰」のエピグラフとして、ユゴーの言葉を引いているのだろう。
遊歩者(フラヌール)
大量生産品がパリのパサージュに並べられて、遊歩者(フラヌール)となった人びとがあてもなく流行品に釣られて徘徊しはじめた。
最初のパサージュ、パサージュ・フェイドーは1791年につくられた。その後、徐々にほかのパサージュも建設されるようになり、パサージュが最も隆盛をみたのは1820年代である。
19世紀も後半になれば、新しく誕生した商業形態としての百貨店がパサージュに取って代わる。先に見たボン・マルシェがその発端だ。
人びとは次々と登場してくる新商品を待ち侘びる役割をもつ大衆となった。消費者となった。
待つことが人生となる時代のはじまりだ。
人びとは外から提供される喜びを待つ時間、すなわち倦怠(ennui、アンニュイ)のなかを生きるようになる。
倦怠という一匹の怪物
待つこととともにある倦怠感は、人を憂鬱にさせる。
ユゴーよりすこし後に登場してきたボードレール(1821-1867年)は、それを主題とした作品をいくつもつくった。
その代表作である詩集『悪の華』(1857年初版)の最初に置かれた「読者に」という詩にはこうある。
倦怠という怪物は、「地球を廃墟にしてしまう」し、「ひとあくびにこの世を呑みこむ」こともある。「水煙管くゆらせながら、断頭台の夢を見る」大衆は、倦怠感のなかでひたすら待ちぼうけだ。
小市民の不満のわけ
再びベンヤミンから引けば、こんな文章も見つかる。
古い時代の「あらゆる偉大なもの、英雄のヒロイズムや聖人の禁欲」が、知識や想像力に乏しく退屈した大衆が抱く不満を正当化する根拠に使われてしまうという意味で、知識や情報そのものが消費対象でしかなくなっているわけだ。
上の引用中、フローベルの『ボヴァリー夫人』への言及があるが、同じ作品について、ヒュー・ケナーが『ストイックなコメディアンたち』でこんな風に書いているのは、知識や情報が、ほかの大量生産の商品と同様に消費対象となり、大衆はそうした消費対象だけを頼りに生きるようになったのだということを、別の観点から指し示しているのだといえる。
19世紀は、インテリアの時代でもある。小市民は自宅の部屋の中に立て篭もるかのように、室内をさまざまなもので飾り立てるようになったという。どこかの誰かが作ってくれたものを、巣の中の雛鳥のように、室内に閉じこもって消費する。
雛鳥にとつまて、自分を取り囲み、幽閉する室内だけが宇宙となる。巣の中で雛鳥たちは決して満たされることのない欲求が満たされるのをただひたすら待ちながら、退屈な時間を過ごすのだ。
内側に籠る倦怠
そう。倦怠は内側に籠った大衆の病である。消費者となった人間の病である。
内側に華やかな絹の裏地を張った灰色の布。
これは見事にパサージュそのものに重なる。
通りと通りのあいだの抜け道として、建物に挟まれるかたちでつくられたパサージュは、たとえその中がどんなに活気に満ちた店舗が建ち並ぶきらびやかな様相を呈していても、外からみれば何のことはないただの薄暗い隙間のようにしか見えない。
倦怠もパサージュも内側にいれば心躍る場所なれど、その中にいる人を外から見れば、なんともつまらぬものに映るというわけだ。
内に閉じこもってぬくぬくと過ごし、外の世界を忘れた人びと。中にいれば気づかないが、外からみれば、そこには倦怠感しかない。
ボードレールの詩にもこうある。
倦怠とは、内にこもったまま外の世界の変化になど気にも止めずぬくぬくと時間を浪費するさまなのだろう。
さて、僕らは雛鳥であることをやめて室内を飛び出し、ただ、待つだけの消費者であることから脱却することができるだろうか。
消費するだけでなく、つくる=createする人になれるだろうか。内側に籠って退屈するのではなく、外の未知の領域においてまだ見ぬ何かをつくりだす側にまわること。誰かが与えてくれる情報を浴びて満足するのではなく、みずから外の世界に触れてインタラクションのなかで情報を発生させること。
僕がいま「つくる人を、つくる」ことが大事だと思う理由である。
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