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ビブリオテーク

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読んだ本について紹介。紹介するのは、他の人があまり読んでいない本ばかりかと。
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#哲学

カオス・領土・芸術 ドゥルーズと大地のフレーミング/エリザベス・グロス

"芸術は動物に由来する"。 "あらゆる芸術は動物とともにはじまるのであり……”。 こんな言葉とともに、芸術とは何かということが、ダーウィンの進化論的な視点やユクスキュルの環世界の視点から考察されたりする。もちろん、サブタイトルにあるとおり、もっとも参照されるのはドゥルーズ(とガタリ)の思想である。 オーストラリア出身の哲学者エリザベス・グロスによる『カオス・領土・芸術 ドゥルーズと大地のフレーミング』はそんな一冊だ。 カオスと芸術グロスは、芸術を、科学や哲学と同じよう

中動態の世界 意志と責任の考古学/國分功一郎

言葉は、人間の思考や行動、生活のあり方、社会の有り様を規定している。ゆえに用いられる言葉が異なれば、人びとの生き方も行動様式も、それらの元になる価値観もまったく違ったものになる。 つまり言葉というのは、ある種、人間にとっての檻なのだ。 だから、かつて存在したという中動態という動詞の態に目を向けることは、人間というものを見つめなおすにあたって、とても重要な観点となるのだと思う。 「かつて能動態でも受動態でもないもう一つの態、中動態が存在した」のだと、哲学者の國分功一郎は、『

身体の使用 脱構成的可能態の理論のために/ジョルジョ・アガンベン

むずかしかったけれど、自分の関心ごとにずはりハマることが多くてワクワクしながら読み進めることができた。 ジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル」シリーズの最終巻にあたる『身体の使用――脱構成的可能態の理論のために』。 自分の身体を、自分自身を、ちゃんと自分で使えているか。 すごく単純化すると本書のテーマはこれだ。 タイトルである《身体の使用》ということばは、「アリストテレスの『政治学』の最初で、奴隷の本性についての定義がなされている箇所に出てくる」ものからとられている。そ

資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐/マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソン 、斉藤幸平

シンプルで、わかりやすく、とてもためになる本だ。 この本の先になら、未来が見える。 『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐』は、以前に絶賛した『人新世の「資本論』を書いた斎藤幸平さんが、マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソンという、それぞれ『なぜ世界は存在しないのか』、『〈帝国〉』、そして『ポストキャピタリズム』という世界的名著を世に出した気鋭の3人の新実在論の哲学者、政治哲学者、経済ジャーナリストと対談した内容を1冊にまとめたものだ。 ど

いと高き貧しさ 修道院規則と生の形式/ジョルジョ・アガンベン

サステナビリティに関心をもって、いろいろ本を読んだりしながら本格的に考えはじめたのは、2018年の秋頃だったと思う。 それから期間にすれば2年半、またいだ年を数えれば2018、2019、2020ときて2021年となって4年目に入ったことになる。 当初は主に、気候変動やら生物多様性、あるいはポストヒューマン的なことへの関心が大きかった。 でも、去年あたりからコロナ禍の影響もあって、それ以外の経済格差や各種の差別、移民の問題、専制的な政治体制などの問題に関しても、サステナビリテ

「人間以後」の哲学/篠原雅武

人新世の世において、僕たち人間の生活を危機に陥れようとしているのは、単なる自然ではなく、第2の自然である。 ここで言う「第2の自然」とは、僕ら人間の手によってすっかり状態が変化してしまった人新世の自然環境であり、それ以上に僕ら自身がつくったにもかかわらず僕らによって放棄された、大なり小なりのサイズのさまざまな人工物――マイクロプラスチックや各種化学薬品で汚染された水から人が暮らさなくなった巨大な建物の廃墟や廃棄された原子炉まで――を含んでいる。 それらはいずれも人間のコン

偶発事の存在論/カトリーヌ・マラブー

なんともオリジナリティのある本だ。 ほかの本と交わる感じがしない。孤立している。 そんな印象を受けた。 まさに、この本でテーマにされている「破壊的可塑性」そのものだ。 本書でいうところの可塑性とは、主体が外部からなんらかの作用を受けつつ、それを内部での変化へと変換することを通じて自らを作り替える様を示す概念だ。 そこに「破壊的」という形容が加われば、取り返しのつかない形で主体が上書き更新されることを指していることになる。 つまり、破壊的可塑性が作動したのち、主体はかつての主

ホモ・サケル/ジョルジョ・アガンベン

その者を殺しても、殺害した者が殺人罪に問われることのない生をもつ者、ホモ・サケル。 なんとも法秩序から見放されたような存在である。 しかし、古代ローマの時代においては、そうした生をもつ者が存在したというのだ。 聖なる人間(ホモ・サケル)とは、邪であると人民が判定した者のことである。その者を生け贄にすることは合法ではない。だが、この者を殺害するものが殺人罪に問われることはない。 殺しても殺人罪には問われないが、生贄として犠牲にすることは許されないという、不可解な位置を占め

植物の生の哲学/エマヌエーレ・コッチャ

どうすれば良いか?を考える際、何を判断基準とするかが問われる。 何を信じて行動するか?という話だと思う。 その基準を再考することがここしばらくずっと問われているのだろうなと感じている。 根拠も乏しい思いこみであれこれ言うのももちろんどうかしているのだけど、科学的根拠や統計的エビデンスを持ちだしたところで、それも思いこみにすぎないことがわかってきているのではないか? 科学的にも統計的にも無理だと考えられることだって可能な場合はあるのだし、その逆だって十分ありえることを僕らは

開かれ/ジョルジョ・アガンベン

まさかアガンベンの本を2冊続けて読むとは思わなかった。 けれど、1つ前に読んだ『書斎の自画像』という自伝的な1冊を読んだら、 その中で話題に上がった本の1つである、この『開かれ』も読みはじめずにはいられなかった。 すでに買って置いてあったことが理由の1つ。 もう1つの理由は、もう一冊同時に読み進めているウィリアム・ウィルフォードの『道化と笏杖』でテーマに上がる普通の人間とは異なるフール=道化ということと関係して、この本のサブタイトルである「人間と動物」ということについて考

書斎の自画像/ジョルジョ・アガンベン

アガンベンが書くものが好きだ。 なんというか意味が溶解するところ、理性的な人間を超えたところにあるものを見つめる視点に惹かれる。 この本も含めて4冊目になるが、どの本にも心を動かされてきた。 いままで読んだ4冊のうち『スタンツェ』(書評)と『ニンファ』(書評)の2冊は主に芸術に関しての思考を集めたものだ。『事物のしるし』はなんと要約すればいいか、むずかしいが、言うなれば思考の方法論について考察されている。 そして、この『書斎の自画像』は、シンプルに言ってしまえば、アガンベ

非唯物論 オブジェクト指向社会理論/グレアム・ハーマン

ANTとOOO。 アクターネットワーク理論(Actor Network Theory)とオブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontrogy)。 ある物事を理解するためには、その対象そのものを内側から直接見ようとするだけでなく、その外側からすこし距離をおいて同時に見てみたほうが理解が深まりやすい。 今回、僕はANTに関してそれができた。 ブリュノ・ラトゥールの『社会的なものを組み直す』でANTについて知ったばかりなので、グレアム・ハーマンが『非唯物論 オ

神の三位一体が人権を生んだ/八木雄二

僕は、どちらかというと海外の作者が書いた本の翻訳本を読む頻度が高い。 特にヨーロッパ系の作者の書いたものを読む機会が多い。 だから、かえって日本人の作者がヨーロッパのことについて書いたものをたまに読むと、違う視点でヨーロッパの特殊性にあらためて気づくことができて、普段と違った感動をおぼえる。 この八木雄二さんの『神の三位一体が人権を生んだ』もまさに、そんな感動を何度もおぼえつつ読んだ。 人として「在る」ということ、他者の「在る」もまた認めるということ、そして、それを認め

物質と記憶/アンリ・ベルクソン

「知覚を事物の中に置く」。 ベルクソンの、この常識的な感覚とは異なる知覚というものの捉え方が、より常識はずれながら、哲学がなかなかそこから抜け出せない精神と物の二元論の罠から逃れるきっかけとなる。 知覚を通常考えられているように人間の内面の側に置くのではなく、身体が運動の対象としようとする物の側に置く転倒は、ベルクソンの『物質と記憶』の数ある「目から鱗」な考えの1つだ。 そう1つ。この本には他にもたくさんの「目から鱗」な事柄がたくさんある。 そして、そのどれもが納得感の