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ビブリオテーク

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読んだ本について紹介。紹介するのは、他の人があまり読んでいない本ばかりかと。
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#エッセイ

2020年前半に読んだ20冊の本

読書はなにか特定のジャンルに絞るより、雑多だけど、自分のアンテナに引っかかったものは、とにかく読んでみるのがいいと思う。 外側にあるジャンルでまとまるよりも、自分が読むことで本同士の関係を見つけていく。それにより本と自分の関係も生まれる。本を読むのってそういうことかなと思うのだ。 そこには当然いつ読んだかということも関わってくる。 この半年はやはりコロナ禍ということが本をどう読んだかにも大きく影響を与えていたはずだ。 そこにもともと興味をもっていた持続可能性というテーマ

アルベルト・ジャコメッティのアトリエ/ジャン・ジュネ

何故だろう。 ジュネのようにはなれないはずなのに、彼の言葉には共感する。 たとえ私一人のためであれ、私はなお、人を罵る者たちを罵りたいのです。 こう、述べるジュネは「私についていえば、私は選択しました。犯罪の側につきます」と宣言しているジュネだ。 「私はほとんど幻想を持っていません。私は虚空のなかで、暗闇のなかで話しています」と述べた上で、自分のためだと自覚した上で「罵る者を罵りたい」と言っている。 このジュネに僕は何故だか共感を覚えてしまう。 昼の光の瀬戸際から引き

物質と記憶/アンリ・ベルクソン

「知覚を事物の中に置く」。 ベルクソンの、この常識的な感覚とは異なる知覚というものの捉え方が、より常識はずれながら、哲学がなかなかそこから抜け出せない精神と物の二元論の罠から逃れるきっかけとなる。 知覚を通常考えられているように人間の内面の側に置くのではなく、身体が運動の対象としようとする物の側に置く転倒は、ベルクソンの『物質と記憶』の数ある「目から鱗」な考えの1つだ。 そう1つ。この本には他にもたくさんの「目から鱗」な事柄がたくさんある。 そして、そのどれもが納得感の

流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則/エイドリアン・ベジャン

とてつもなく示唆に富んだ本だ。 これを読まずして何を読む? そう言ってよい一冊だと思う。 進化とは、単なる生物学的進化よりもはるかに幅の広い概念だ。それは物理の概念なのだ。 と著者で、ルーマニア出身のデューク大学の物理学教授であるエイドリアン・ベジャンは書いている。 この本でベジャンは物理学視点によって生物の進化と、河川などの無機物の変化、さらには人間によるテクノロジーの進歩の流れを、統合的に予測可能なものにしている。 本書は、生命とは何かという問いの根源を探求

シャッフル航法/円城塔

創造力を高めるためのスキル。 そのスキルがちゃんと身についていないまま行う創造的作業は結果に繋がりにくい。 そういうことが往々にして起こってしまうひとつの要因として、創造の道具としての言語の力を僕らが過小評価していることがあるのではないか。 言葉は僕らの考えを縛る。どんな語彙を使えるかで何を考えうるかの範囲は変わってくる。 また、言葉の巧みな組み合わせで、その限界を突破できるかどうかも、言語化のスキルによって随分異なる。 当たり前のことばかりしか考えられないのは、当たり前

エジプト人モーセ/ヤン・アスマン

自然と文化。 このnote上でも紹介してきたように、これまで二項対立的に扱ってきた両者を、最近の哲学の流れでは区別できないものとして扱われるようになっている。 境のない状態をどう捉えるかは、いろんな考えがあり、『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』(書評)のロージ・ブライドッティは、自然-文化連続体という概念で唯物論的な捉え方をするし、このスタンスは『社会の新たな哲学: 集合体、潜在性、創発』(書評)のマヌエル・デランダの考えにも近い。 また、科学人類学を提唱するブルー

夜の讃歌・サイスの弟子たち他一篇/ノヴァーリス

モノたちの側から見て、僕たち人間はどう見えるのだろう? 「ああ、人間に」と物たちは言った、「自然の内なる音楽を理解し、外なる調和を感じとるための感官がそなわっていればいいのに!」 まあ、こう指摘するからには、「物たち」の側にはその両方ともが備わっているのだろう。だからこそ、彼らは環境において他の無機物、有機物と連携して生態系の調和を作れるのだろう。 人間とは違って……。 スティーヴン・シャヴィロの『モノたちの宇宙』という本を紹介したのは昨年12月のことだ。 その本

自然なきエコロジー/ティモシー・モートン

"エコロジーは、もしそれが何事かを意味するのだとしたら、自然がないことを意味する" 年末からすこし読み始め、一度中断して、また年明けすこし立って読むのを再開していたティモシー・モートンの『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』。 ようやく読み終えたが、この400ページ弱のそれなりの分量の本のなかで、モートンが現代のエコロジー的な思考法や態度の源泉を19世紀のロマン主義の芸術に認めて、その美的な距離感を批判しつつ、最終的に提唱するダークエコロジーの倫理観がものすごく

プロローグ/円城塔

2018年を『エピローグ』で終えたからには、2019年は『プロローグ』ではじめるべきだろう。 円城塔の私小説『プロローグ』。 それは「わたし」についての小説としての私小説。けれど、通常の私小説における私と、この『プロローグ』と名付けられた私小説の「わたし」はどうも違う。私小説においてその小説を書く/語るものが、私/わたしだとしたら、『プロローグ』においても、そのルールは遵守されている。 けれど、小説を語る者が書く者と奇妙なぐらい、イコールであったら、それは常軌を逸しはじめる

エピローグ/円城塔

意識を持ち、ほかの存在のことを見ている存在は、何も人間だけではない。 ほかの存在のことを気にして、それらと依存しあい影響しあい、時には排除したり利用したりぞんざいに扱ったりしながら、自分以外の存在とともにありつつ、自分が宇宙の中心であるかのように勘違いしている存在も、人間だけではない。 ほかの動物だろうと、植物だろうと、いや非生物的な存在だろうと、人間と同じように自己中心的にほかの存在のことを考えている。 そんな非人間中心の考え方に興味を持ったのが、2018年後半の2ヶ月あま

四方対象/グレアム・ハーマン

2018年もいろんな本を読んだ。 ちょうど1年前の年末年始にかけて読んだのはゲーテの『ファウスト』(書評)だった。19世紀初頭に書かれた、この作品はあらためて近代という、人間と世界のあいだに亀裂が認識された世界が明確に描かれていた。 「ありとあらゆる道徳観念が、耐えがたいまでの重荷を負わされ」、「たえず、神の権威と、直接、関係づけられ、「罪という罪は、極微小の罪にいたるまで、宇宙世界と関係づけられる」と書くホイジンガの『中世の秋』(書評)やジョルジョ・アガンベンの『スタン

モノたちの宇宙/スティーヴン・シャヴィロ

僕らの生きる世界はさまざまなモノが複合的に重なりあって構成されている。 それは家やスマホや衣服や食物やペットや水や空気のような物理的なモノだけではない。家族や企業や部活や学会や議会などのさまざまなコミュニティや組織のようなものもあれば、法律や学問分野や、数字や言葉や通貨などの物理的な形をもたない概念やしくみもモノといえる。美術作品や音楽作品、料理の種類、あるいは、さまざまな素材や部品などの人工的なもの、血液や細胞、DNA、分子、原子、電子、ニュートリノ、あるいはダークマター

有限性の後で/カンタン・メイヤスー

しばらく前から続いてる新しい哲学書を読み進める私的プロジェクト。 新たに読み終えたのは、思弁的実在論(Speculative realism)の地平を開いたカンタン・メイヤスーの『有限性の後で』だ。 2006年に書かれたメイヤスーの処女作である本書では、カント以降の哲学が、「相関主義[correlationisme]」に支配されているとされ、それとは異なるあり方として思弁的実在論が提唱されている。そのことをメイヤスーは非常に数学的・論理的な方法をもって証明していく。 前提

食人の形而上学/エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ

人類学+ドゥルーズ。 新しい視点をいろいろ与えてくれて、楽しく読めた一冊。とにかく、このタイトルからは想像しにくい、グローバル化と自国主義、ヘイトスピーチやさまざまな炎上の問題など、現代の社会における課題を紐解くのに最適なヒントが詰まった一冊。 面白いポイントがありすぎて、どう紹介してよいか迷うのだが、まあ、とりとめもなく書いてみよう。 ドゥルーズ=ガタリの有名な作品『アンチ・オイディプス』のオマージュとして、『アンチ・ナルシス--マイナー科学としての人類学』と呼ばれる本を