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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#歴史

好奇心の機能不全と編集する力

唐突だけど、フランス・ブルターニュ地方への玄関にあたるレンヌの街のレンヌ美術館にある、Cabinet de curiosités(好奇心のキャビネット)という部屋が好きだ。 絵画や家具が並んだコーナーもあるが、ここに掲載した写真のような小さな彫刻や人形、化石や道具類が収められたガラス棚が趣味にあった。雑多で悪趣味な感じがなんとも良かった。パリのマレ地区にあるカルナヴァレ美術館が好きな理由とも似たところがある。 さて、このキャビネットは所謂「驚異の部屋」で、18世紀のクリス

事実も、地球も、個室も、日記も、救貧法も、17世紀につくられて

気候変動や経済格差といった問題を根本的に考えようとするとき、17世紀にヨーロッパで起こった変化に目を向けないわけにはいかない。そこにこそ、この危機をもたらしている原因に対し対策を行うためのヒントがあるはずだから。 17世紀にどんな変化が起こり、それが現代の環境・社会の問題にどんな影響を与えているのか。ひさしぶりに超絶長くなるが(12000文字超)、書き進めてみよう。 まずは手始めに、アメリカのモダニズム文学の研究者ヒュー・ケナーはその小さな大著『ストイックなコメディアンた

無縁、あるいは、あらゆる法権利の放棄

道を自由に歩いてよいのは、法的に許されているからなのか。 空気を自由に吸いこんでも咎められることのないのは、法的に認められているからなのか。 また、他人を殺めてはいけないのは、法で決められているからなのか。 他人を誹謗中傷したりするのがいけないのも、法がそう定めているからなのか。 自由と法、やってはいけないことと法の関係をあらためて考えてみてもいいのかもしれない。 コロナ禍で不要不急の外出の流れをとめる/減らすには、法の改正が必要なのか、を問われているいまの状況だからこ

形態(する)

形態(form)というものを静的なものとしてではなく、動的な、まさに可塑性をあらわす動詞として捉えること。 そこに芸術の可能性を感じとった人が歴史のなかには何度かあらわれていることに僕は興味をもっている。 たとえば、美術史家のアビ・ヴァールブルクもその1人だろう。 彼は、美術史(いや、正確にはイメージの歴史だろう)を通常のように、作られた芸術作品とその制作者である芸術家たちの静的かつ線的な歴史としては見なかった。彼がみていた歴史は、もっとアナクロニズムなもので、力のうごめ

疫病、モバイル性、内面化

疫病(はやりやまい)は、人びとのあいだを分断する。 それをいま僕らは身をもって体験してるわけだけど、他人とのあいだを分断されて、部屋のなか、自分のなかにひきこもったとき、活躍するのがモバイル性のある情報メディアだろう。 たぶん、いまスマホがなかったら、僕らのひきこもり生活はもっと退屈だったに違いない。 とはいえ、過去のどの時代にも、その時代時代にあったモバイルツールが、疫病によるひきこもり生活を助けていたようにも見受けられる。 1665年、ペストが流行ったロンドンでた

New Normal ?

あー、なんか本当に夢から醒めた気分だ。 今週は3日オフィスに出社してみた。 フルリモートワークの期間が2ヶ月も続くと、誰もが感じたのと同じように、このままオフィスに出社しない働き方もありなんじゃないかと思っていた。 でも、3日出社してみて思ったけど、まったくそんなことないなと早くも気づいた。 オフィスで働くほうが圧倒的に生産的だ。 他人と話すにも話は早いし、発想が豊かになりやすい。 あと画面のなかの映像やPCからの音声のみに縛られないのは、いろんなものを認識して利用するの

非常事態と原状回復

専制君主のなすべき務めとは、非常事態における秩序の原状回復ということであり、これはつまりひとつの独裁にほかならず、変転してやまぬ歴史経過に代わって、もろもろの自然法則の鉄のごとく堅固な体制をしくことが、つねに、この独裁のユートピアであり続けるだろう。 ヴァルター・ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』を読んでいる。 これがなかなか面白く、ときに興奮しながら読み進めている。 そのなかの一文が上の引用だ。 いまのように「原状回復」が遠く感じられてしまうくらい現政治体制の空回り具合を

考える人、詩人

2015年に亡くなったポーランド生まれの美術史家、ペーター・シュプリンガーの『アルス・ロンガ − 美術家たちの記憶の戦略』を読んでいる。 またしても、パトスフォルメル的なイメージの反復の例がみられて面白い。 どうやら、僕はこういう話が相当好物らしい。 1つ前で紹介したカルロ・ギンズブルグの『政治的イコノグラフィーについて』でもそうなのだけど、歴史上、時代を越えて類似のイメージが意味を変えながら繰り返し浮かび上がってくることがある。 アビ・ヴァールブルクはそれをパトスフォルメ

わたしたちは各方面からわたしたちのところにやってくるさまざまなニュースの間断なき喧騒から身を引き離すよう努めなければならない

久しぶりにテレビのニュースを見ていて、唖然とした。 緊急事態宣言の発効を伝える内容なのだけど、中身がほとんどない。いろんなものが削られてまさに換骨奪胎。まったくコミュニケーションになっていなかった。 アナウンサーの喋っている言葉も、映像や音声の切り取られ方も、テロップなどで出される文字情エッセイ報も、このたくさんの命に関わる状況を改善するために、それを見ている人が正しい判断をし行動をとるための一助となるような有益な情報を何も伝えていないように感じた。 いや、何も伝えていな

アート&サイエンス

「2017年04月27日」だからおよそ3年前に別のところで書いた記事だけど、いまの気分にもあっているので再掲。 リサーチだとか研究だとかというと、何かとっつきにくい特別なことのように感じられるかもしれない。 だけど、何かを知りたい、理解したいと思い、そのことについて調べることや、調べてわかったことを元に自分で納得できるような解釈を見つけだすことは、人生において決して特別なことではないはずだ。 自分がわからないと思ったことに立ち向かい、わかるための様々な具体的な行動をすること

想像の過程における知識の分割と統合

想像力が不足している。 勉強が足りなくて想像のための素材の手持ちが少なすぎて想像できないこともあれば、想像するためのスキルが伴っていないというそもそもの問題で想像できないこともいる。 前者は、料理をするのに必要な食材や調味料が揃えられていないという問題であり、後者はそもそも料理ができないという問題だ。 けれど、そういうスキルと素材の部分はちゃんと満たしている人でさえ、なかなか自分の「外」をしっかり想像することはむずかしい。それは得てして、「外」だと認識しているものが実は自

フーリッシュな知性(後編)非人間的な知

「フーリッシュな知性」と題し、歴史上、至るとき、至るところに見られる「フール」の文化の変遷を辿りつつ、「理解」という人間的な思考の外側に開いた魔の領域に目を向けた「前編」。 さすがに長文になりすぎたため前後編に分割したが、後編では「使える」ということと「理解」の関係の外側にある非人間的な知性、まさにフーリッシュな知性について考えてみたい。 まずは、前編で紹介したチャップリンに続き、「ドイツのチャップリン」とも呼ばれる喜劇役者カール・ヴァレンティンのコメディ作品に目を向けて

フーリッシュな知性(前編)理解の外で

理解をするということは大事なことだと思う。 対象が何であるかにかかわらず、自分自身でその対象について理解を深めていくということは、とても大事なことだ。 「理解する」という行為は、対象物との関係性を深め、対象に対する配慮やリスペクトや愛を生み、対象との協働の可能性を高めてくれる。 つまり、逆に言えば、「理解している」かは、対象に対する配慮やリスペクトや愛や、利用可能性やコラボレーションの可能性をどれだけ手に入れたかによって測ることができるということだ。 現実において使えない

意味と身振り

最近、忙しすぎて更新が滞っているものの、そのあいだにもありがたいことにフォロワーの数が40,000を超えた。 10,000ずつ増えるたびに思うだけれど、何を期待してフォローしてくれるのか、わからないくらい、難解な内容なこのnoteにもかかわらず、本当にうれしいなと思う。フォロワーのみなさんに感謝。 僕ができるのは、ただひたすら書き続けることだけだけど、これからもよろしくお願いします。 さて、今回は、いま読んでいるウィリアム・ウィルフォードの『道化と笏杖』から話のネタを。