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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2020年5月の記事一覧

パニック

パニックを作りだすのは、自分自身の頭でしかない。 まあ、そうだと思っていたけど、やっぱりそうなのかという話に、いま読んでるエドゥアルド・コーンの『森は考える 人間的なものを超えた人類学』で出会う。 南米エクアドルの調査に向かうバスでの旅路で、著者は、地滑りに巻き込まれて、バスの前後を塞がれてしまう。バスの上の方の山も崩れて、岩がバスの屋根にも降ってくる。 恐怖を感じる著者とは別に、乗り合わせていた旅行者のスペイン女性たちは冗談を言って笑っている。そのうちひとりはバスを降り

デザイン経営における共生志向民主主義

世の中的にも話題になり始めているように、リモートワーク環境下に移行したことで「仕事をしている」かどうかの判断基準が、オフィス(など、仕事の現場)に参加していることから、実際にそれぞれの人がどんな成果を出したかへとシフトしてきている。 以前から問われることのあった「会議で何も発言しない人はどうか?」という問題も、その流れでいけば、会議に参加してるだけで何の発言もしない人(議事録を作成する係でもないのに)は、その時間、成果を出していないのだから、仕事をしていないということになる

"Stay home"から"Go home"へ

つまらないなー。 何かを定義したがる思考の仕方って、不自由だなと感じてしまう。 ここ最近ちょっとスランプで、ひさしぶりのnoteなのに、いきなりネガティブなことからはじめてしまったが、言葉に対して過度な期待をしてしまうひとが増えてしまうと世の中、窮屈になってしまうと思う。 デザインとは何か、クリエイティブとは何か、民主主義とは何か、正義とは何か、暴力とは何か、ハラスメントとは何か、などなど。 そんなところに引っかかるのは時間の無駄だといつも思う。言葉にひとつに定義できる

知と善悪

知らないというのは、とても無責任なことだ。 いまのように平常が壊れると、よりいっそう知に対する姿勢が問われてしまう。 なにかについて知らなければ、その対象に対して配慮することはできない。 相手のことをわかってあげなければ、相手を慮ることはできない。 今みたいに普段どおり振る舞うことができず、自分自身も含めて、つねに普段どおりじゃない状態にある他人や社会を慮りながら行動しなければさまざまな不具合や衝突が起こってしまうような状況では、知るということは、他人や社会との適切な関係

非常事態と原状回復

専制君主のなすべき務めとは、非常事態における秩序の原状回復ということであり、これはつまりひとつの独裁にほかならず、変転してやまぬ歴史経過に代わって、もろもろの自然法則の鉄のごとく堅固な体制をしくことが、つねに、この独裁のユートピアであり続けるだろう。 ヴァルター・ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』を読んでいる。 これがなかなか面白く、ときに興奮しながら読み進めている。 そのなかの一文が上の引用だ。 いまのように「原状回復」が遠く感じられてしまうくらい現政治体制の空回り具合を