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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2019年12月の記事一覧

想像の過程における知識の分割と統合

想像力が不足している。 勉強が足りなくて想像のための素材の手持ちが少なすぎて想像できないこともあれば、想像するためのスキルが伴っていないというそもそもの問題で想像できないこともいる。 前者は、料理をするのに必要な食材や調味料が揃えられていないという問題であり、後者はそもそも料理ができないという問題だ。 けれど、そういうスキルと素材の部分はちゃんと満たしている人でさえ、なかなか自分の「外」をしっかり想像することはむずかしい。それは得てして、「外」だと認識しているものが実は自

持続可能性と「人間」の外にあるもの

相変わらず、日本では持続可能性ということに対する意識の高まりが見られない。そのことに僕はびっくりする。 仕事柄、いろんな企業の変革に関わらせてもらっている。だけど、そうした現場でも持続可能性という観点で物事を考えることがデフォルトになってきているとはいえない。変革しようとするなら持続可能性という視点で考えることは、それだけで多くのきっかけが得られて便利だと思うのだけど、あまりそうはなっていないのは何故だろうかと感じることもある。気のせいだろうか? いま何かを変えるとすれば

フーリッシュな知性(後編)非人間的な知

「フーリッシュな知性」と題し、歴史上、至るとき、至るところに見られる「フール」の文化の変遷を辿りつつ、「理解」という人間的な思考の外側に開いた魔の領域に目を向けた「前編」。 さすがに長文になりすぎたため前後編に分割したが、後編では「使える」ということと「理解」の関係の外側にある非人間的な知性、まさにフーリッシュな知性について考えてみたい。 まずは、前編で紹介したチャップリンに続き、「ドイツのチャップリン」とも呼ばれる喜劇役者カール・ヴァレンティンのコメディ作品に目を向けて

フーリッシュな知性(前編)理解の外で

理解をするということは大事なことだと思う。 対象が何であるかにかかわらず、自分自身でその対象について理解を深めていくということは、とても大事なことだ。 「理解する」という行為は、対象物との関係性を深め、対象に対する配慮やリスペクトや愛を生み、対象との協働の可能性を高めてくれる。 つまり、逆に言えば、「理解している」かは、対象に対する配慮やリスペクトや愛や、利用可能性やコラボレーションの可能性をどれだけ手に入れたかによって測ることができるということだ。 現実において使えない

自分で理解する(答えをつくる)

理解するのには、2つのベクトルからのアプローチがある。 1つは、話をする側、何かを表現し伝える側のほうから、受け手に理解してもらいやすく工夫することで受け手の側の理解を得ること。 もう1つは、その受け手の側、話を聞く側であり、何か表現されたものを視聴したり読んだりする側のほうから、自分から積極的に発信者側が何を言ってるか、言おうとしているかなどを理解するために、内容を整理したり、わからない点を質問したりすることで理解を形づくろうとすること。 現代において、前者の努力は方々

意味と身振り

最近、忙しすぎて更新が滞っているものの、そのあいだにもありがたいことにフォロワーの数が40,000を超えた。 10,000ずつ増えるたびに思うだけれど、何を期待してフォローしてくれるのか、わからないくらい、難解な内容なこのnoteにもかかわらず、本当にうれしいなと思う。フォロワーのみなさんに感謝。 僕ができるのは、ただひたすら書き続けることだけだけど、これからもよろしくお願いします。 さて、今回は、いま読んでいるウィリアム・ウィルフォードの『道化と笏杖』から話のネタを。