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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2019年5月の記事一覧

ドラクロワとユゴーと

1814年のナポレオン没落後、フランスは王政復古の時代に入る。 24年までをルイ18世が、30年までをシャルル10世が王位に就いた。 この復活したブルボン王朝は、まるでフランス革命など、なかったかのように、貴族や聖職者を優遇し、市民は不満を募らせた。 シャルル10世は国内の不満をそらすため、1830年にアルジェリアへの侵略を開始。それでも不満はおさまることなく、シャルル10世は自由主義者の多かった議会を解散し、選挙権を縮小する勅令を発した。 これにより市民の不満は爆発。立憲

視野の外

どんなことでも良い。 何かを考え、そのことについて他人とディスカッションするとき、物事を見る視野が狭くて、自分の視点でしか考えずに話していると、相手と話が噛み合いにくい。そのことによって会話の時間そのものが不毛なものになってしまうことも少なくない。 しかし、視野が狭い当人には何故相手と話が噛み合わないかさえ、わかっていないはずだ。だって、当人にとっては見えてる世界がすべてで、相手がその世界の外のことを話していることなんて考えてもみないのだから。 大蛇の上に大きな亀が乗り、さ

獲物の気配

ヨーロッパ各地の街に行ったときの1番の楽しみは、その地の美術館に行くことだ。日本で名前の知られた美術館でなくても、その街にちゃんとした美術館があれば逃さず行きたいと思う。 現代美術館もいいが、好きなのは、ルネサンス以降、19世紀くらいまでの作品を扱う美術館。 そう。美術史家のダニエル・アラスが『モナリザの秘密』で「14世紀初頭から19世紀末にかけてのヨーロッパ絵画を特徴づけるのは、それが自然の模倣という原理のもとで描かれているということです」と書いている、まさにその時代の作

群れと、組織と、

プロジェクト単位で、毎回結構内容の異なる課題にチャレンジすることになる僕のような仕事をしてると、「一手一手に勝負を賭ける」というのは、比較的普通のことのように思えるが、まあ、たいていの仕事はそうではないだろうというのもわかる。 いや、僕の仕事だって、それなりには計画されているのだから、組織立っていたりもするわけで、そんなにすべてが「賭け」なわけではない。 ただ、「蓄積=資本」があるかというと、初体験ゆえに、それは欠いていることが多い。 樹木とリゾーム 群れや徒党のリーダー

ユーモラスな継ぎ接ぎ

このGWにローマに行って感じたのは、街がいくつもの時代が地層のように折り重なってできているということだ。そういうものだという、あらかじめの知識はあって行っても、直に目にするとやはり感心する。 古代の遺跡の上に、中世やルネサンスの建物が自由に覆いかぶさるように建っている。二重三重と古い構造物の上に、新しい構造物が継ぎ接ぎされる。その継ぎ接ぎだらけの建物を現代的な内装やお店の看板が覆う。道行く車が建物を影に隠してみたりする。 異なる時代が混じり合いつつも、互いに排除しあうこと

神を迎え神送る道行の向こうには人新世が……

日本の家屋には、ハレの出入り口とケの出入り口があるという。 ハレの出入り口のほうは庭から入って縁側を通って座敷に入るそうだ。 門のそばの庭木戸から池などをめぐりながら庭をあるき、靴脱石から縁をとおって座敷にはいるのが正式の玄関だった。 と『日本人と庭』で上田篤さんが書いている。 縁側に靴脱石があるところ、それがハレの出入り口。 しかし、それは……、 いいかえるとそれは神迎えをし、また神送りをする道行である。あるいはその家の祖霊がやってきて、去る道でもあった。

日常の過ごし方がすべてをむずかしくする

むずかしい本を読んでるね、と言われることは少なくない。 まあ、そうだとは思う。 でも、一方で「むずかしい本」って何だろう?と思ったりもする。 むずかしい本とそうではない本があるような言い方だが、果たしてそうなのか? そんな風には到底思えない。だって、むずかしいと言われる本と、そうでない本に違いなんてないんだから。 むずかしさは本の側にはない、日常の側にある本そのものがむずかしいことなんて、そんなに滅多にない。 大抵の「むずかしさ」は、子供がはじめて自転車に乗るときのむずか

わからないことに立ち向かう方法を想像することをデザインという

実は、「正しさ」なんてものを信用したことは一度もない。 何かがその時々の状況に応じて「適切である」ことはあって、その選択がその条件のもとで正しいことはあっても、何かが無条件に正しいなんてことはないと信じている。 だから前回「牛、蜂、そして、百合の花」で書いたような、古代エジプト人たちが「変身」という思考装置を用いて世界を理解していたという話にしても、いまの僕らにとってはまったくもって「あり得ない」ことだとはいえ、その思考が「正しくない」なんてことはないと思うし、その思考は十

牛、蜂、そして、百合の花

古今東西問わず、さまざまな神話をみると古代の人々のなかに「変身」という概念がごく当たり前のようにあったのだろうということに気づく。 西洋であろうと、東洋であろうと、はたまた現代においてもアメリカ大陸先住民の神話の世界であろうと、いまでは信じがたいくらい異質なもの同士のあいだの形態変化がごくごく普通に語られる。そこでは明らかに僕らが信じているのとは、まるで異なる世界の存在および生成の原理が信じられているのだ。 「この全世界に、恒常なものはないのだ。万物は流転し、万象は、移り変

パリとローマのエジプトかぶれ

今回、ローマとパリを旅行する前に、バルトルシャイティスの『イシス探求』を読んでいた。 きっかけはヤン・アスマンの『エジプト人モーセ』を読んだことだ。ヨーロッパとエジプトのつながりに興味を持ったので、エジプトの女神イシスを題材にしたバルトルシャイティスの本を手にとったのだった。これが旅行直前の心理状況において、殊の外、興味をそそる内容だった。 こんなことが書かれていた。 「パリは河の中に作られた都市であり船をシンボルとしている。この船とはイシスの象徴である」と。セーヌ川の中州

感染するイメージ

パリで美術館をはしごして過ごしている。 この2日間で、ルーヴル美術館、オルセー美術館、リュクサンブール美術館、ドラクロワ美術館、ピカソ美術館を回った。あと残りの2日間もいくつかの美術館を訪れるだろう。その前のローマも含めれば、このGW中、かなりの数の美術館を回ったことになっているはずだ。 こうやって短期間でたくさんの作品を観てまわっているからこそ、気付くこともある。それは西洋美術史の流れの中では先行する芸術家の作品をベースに自分の作品をつくる芸術家がそれなりに多いというこ

幻惑のローマ

どうやら行く場所がマニアックな傾向があるようだ。 前からローマに行く機会があれば絶対に行きたいと思っていて、今回颯爽と出かけたヴィッラ・ファルネジーナ・キージも、観光客らしい人は比較的少なかった(途中で団体客がやってきたけど)。 それに比べて、ローマ滞在4日目にしてようやく足を運んだスペイン広場の人の多いこと。これは楽しくない。 当然、ゆっくりお目当てのラファエッロ作《ガラテア》をみることができたキージ荘のほうが楽しかった。 異教の神々を嗤うさて、ヴィッラ・ファルネジー