Sculpting in time and place 森伽原個展

画像2

画像2

私の大学院の一学年上の先輩である森伽原(カハラ)さんによる個展「Sculpting in time and place 森伽原個展」が京橋のギャラリーにて行われていたので、友達三人で見に行ってきた。手ぶらで行くのもなんだからということで、会場からほど近い高級スーパーにてお酒を買っていった。森さんは大のお酒好きであり、何度か盃を酌み交わしたことがあるのだが、彼はお酒が入ると持ち前のむっつりとしたチャーミングさが5割増しになるという素晴らしい人格の持ち主である。買ったお酒はいわゆるスパークリング日本酒という類のものだが、その名も「匠JOHN」といい、和洋折衷を前面に体現する名前でこれまた素晴らしかった。我々はこのお酒の名前をひとしきりいじって満足し、雨のなか会場へ向かった。

地下鉄銀座線・京橋駅からほど近いビルの4Fにつくと、笑顔で森さんが迎えてくれた。白い小さな展示室に作品が端正に存在している。それぞれの作品は什器も含めて作品であり、それらは全てネジ、ナットやワッシャーなどの金属製の既成工業部品を乾式で組み上げて作ったものである。それが壁から大きく跳ね出して木・もしくは鉄板に描かれた油絵とも砂絵とも彫刻とも言い難い小さな「世界」を支えている。その全てが床面からは離れて独立しているため、とてつもない緊張感が会場には漂う。そのほか、鉛筆によるタルコフスキーの『サクリファイス』にインスパイアされたドローイングが展示してあった。

画像3

この作品は今回の個展のために製作された最大の作品で、天板のベニヤ板の長手の長さは1820mmあり、その表面にはサハラ砂漠の砂を用いて、ドローイングともランドスケープとも言えるようなものが表現されている。この作品が最も印象に残り、考えさせられることが多い作品だと感じたので、それを書き残したいと思う。
この作品は壁から跳ね出した二本のネジが端部において4つに分節し、それぞれが天板の端部を引っ張り、また支えることによって天板はカーブを描いて空間に浮遊するというものである。

画像6

このように、2m近い長さの天板がたった2本の華奢なネジとワイヤーだけで浮遊するさまは異様であり、美しい。また、天板は長手方向の両端を引っ張られてカーブしているだけでなく、短手方向にも湿気や引っ張られることによってカーブが生じてることがわかる。ベニヤ板という異方性のある天然素材を用いることで、複雑な三次元形状を天板に持たせていると同時に、展示日数が経過していくごとに徐々に形が、微妙ではあるが変わっていく天板上の世界が表現されているといえる。

画像4

サハラ砂漠の砂によって表現されている天板上の世界にはスケールを超えて、水道橋のようにも動物にも見える不思議なオブジェクトが配置されている。また、天板の素材であるベニヤ板の木目が砂漠に吹く風によって刻まれる砂紋のような情景を醸し出している。
天板に目を近づけ、アイレベルに近いような目線に立つと、天板がカーブしていることによって地平線のような風景を見ることができる。

画像5

天板を支えるが分節してる部分は複雑に構成されているが、さながら逆さに磔にされている人間のような形にも見える。カーブを描く天板上の世界を支える逆さに磔にされた人間というメタファーは、まだ地球が球体ではなく、平らな板状の世界で、それを巨大な象などの動物が支えていたという頃の世界の了解の仕方に通ずるものが感じられる。それがこの作品において世界を支えているのは工業部品で構成された磔の逆さ吊りの人間である。なんとも皮肉に満ちていると感じた。

この作品について感じたことは、私たちが普段「モノ」に与えている意味や価値に対して積極的に読み替えを行なっているということだ。この作品を構成している工業部品は決してこのような作品を作るために作られたものではない。当然、この作品の機構は部品の製造に際する想定をはるかに凌駕しており、台車などの車輪部分であるキャスターを分解して使っている部分もある。また、木で作られたオブジェクトは水道橋の遺跡とも読み取ることができるし、動物の類と読み取ることもできる。これはスケールを超えた読み換えである。
私たちの存在や、意義というのは案外簡単に入れ替わりうるという事かもしれない。それは、私たちの世界の了解の仕方1つで変わってしまうものかもしれないし、私たちが世界にどう組み込まれるかという不可抗力の中でも変わってしまうという事だ。私たちを構成している原子はたまたま私という形や実態を形象しているけれども、それは世界に違った形に了解されることはままある。

また、天板上に表現された世界を支える構造を考える、という今回の展示の最大の焦点(だと私は思っている)は、そのまま世界の了解の仕方を考えるということになると思う。それが工業部品による逆さ磔の人間である(ように見える)ということについては前述の通りだが、人間が天板にテンションをかけることによって、天板の形が歪めてられているということだ。それは、球体である地球の持つ自然の形であるかもしれないし、人間によって強いられている負担の現れであるかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?