大谷・羽生世代

私は、結構生まれ年や年齢を気にするタチだと思う。例えば、すごいスポーツ選手だとか、アーティストだとか、作家、芸人、なんでもそうなのだけれども、自分よりすごいな、と思う人に出会うと、その人が自分の年上か年下かを確認したい衝動にかられる。もし、その人が自分より年上だったら自分の今の年齢とその人の年齢との距離を確認し、これだけ時間あれば追いつけるな、と全く根拠のないシャウトをする。逆に彼らが自分より年下の場合は、今から何やってももう遅いのかな・・・と途端に自信を失ってしまう。そういう時は「糸井重里がほぼ日を始めたのは50歳になってから」ということを再確認し、謎の安心感を得ることにしている。私にはまだ二十余年の猶予があるのである。芥川賞、ノーベル賞。なんでもかかってこい。・・・私の持つ屈指の悪癖である。

そんな私と同じ生まれ年の有名人にはそうそうたるメンツが揃っている。

まずは野球の大谷翔平。1994年7月5日生まれ。私も野球を長いことやっていたので、高校生の時から彼の活躍を知っていた。彼は高校生の頃から160km/hのストレートをぶん投げ、鳴り物入りで日本ハムに入団していった。その後、私が大学野球で先輩と風呂場で毎日なぞかけをして精神的な鍛錬を積んでいる間に、いつの間にか彼は日本球界のスターダムを駆け上がっていた。私が磯丸のバイトで45分休憩のところを50分休憩して、店長に怒鳴られてその休憩分の時給を引かれそうになっている間に、なん億円ももらってアメリカに渡って行ってしまった。とんでもない同い年である。

他にも、くるくる回っている間に国民栄誉賞を受賞してしまった、フィギュアスケートの羽生結弦もいる。1994年12月7日生まれ。いや、同い年で国民栄誉賞なんてもらったらあとの余生何をして過ごすんだよ、と思った。私のような人間は国民栄誉賞をもらったら多分もう何もしないと思う。練習も何もやめて自堕落に過ごすだろう。しかし、彼は挑戦をやめない。怪我をしても、膝の軟骨が磨り減ろうとも、氷上で華麗に舞うことをやめない。それが、国民栄誉賞をもらえる所以なのだろう。国民栄誉賞をもらっても過度に自慢せず、自堕落にならない。それが私と彼との唯一の違いか。いや、私が仮に国民栄誉賞をもらってもぐうたらしないとしても、私は国民栄誉賞をもらえるわけではないことを知った。誰か私に栄誉という熟語の意味を教えてください。

その他にも競泳の瀬戸大也や荻野公介、広島東洋カープで日本代表の四番打者を務める鈴木誠也などだ。このメンツを見ただけですごいのに、なんとジャスティン・ビーバーも同い年である。私なんか、どう頑張っても世間をお騒がせすることができないのに、ジャスティンは息をするように世間をお騒がせている。ご苦労様です。私が騒がせることができるのは、私の半径0mくらいのものだ(つまり、自分だけ)。空回りのトリプルアクセル。

もし、それぞれの世代に「ノルマ」みたいなものがあるとしたら、もう前述の人たちだけで1994年生まれのノルマは果たしていると思う。ノルマを果たしている前述の人々のおかげで、その他の人たちは余りみたいなものになるから「まあ、気楽に行こうや」と思うことができる。閏年の2月29日みたいなものだ。私が世間の役に立たない無駄みたいなものを生み出し続けていい理由がここにある。

ちなみにこの「閏年の2月29日=おまけ」というアイディアは糸井重里さんがほぼ日刊イトイ新聞の中で言っていたものだ。糸井さんには一生かかっても追いつけそうにないや。

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