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バックグラウンドかミュージックか─BGMから紐解く現代の物語

先日、映画『モンスターズ・ユニバーシティ』のサウンドトラックを買った。ある種の趣味であり、ディスクで買うのが好きである。
『モンスターズ・ユニバーシティ』の映画は、名曲が揃っている。映画『モンスターズ・インク』の前日譚であり、「インク」では会社員だったマイクとサリーの大学生時代を描いているのだが、それ故サウンドトラックも同様に「若返り」を果たしている。ジャズを主とした「インク」に対して、そこから同系統でやや若くなったマーチや吹奏楽の趣を感じさせる。両作品を通して担当が変わらず、ピクサーの常連のランディ・ニューマンが作曲しているのもうれしい。続編でいきなり作曲者が変わると、面食らってしまうこともあるからだ。筆者が特に目当てにしていたのは、「メイン・タイトル」はもちろん、「猛毒を持つ光るウニ」のシーン、そして映画のエンドロールで使用され、作中でも挿入されたアレ……アレ?

そう、Amazonなどでレビューを調べてみるとよくわかるが、この映画最大の欠陥がそこにある。「メインテーマがオリジナル・サウンドトラックに入っていない」のだ。そんなことある? あった。え?

Trailer2では1:09から、Final Trailerでは0:27から象徴的に使用されているこの曲が、サウンドトラックに入っていない。

結論から言えば、この曲はどうやらランディ・ニューマンが書き下ろした曲ではないらしい。MarchFourth Marching Bandの“Gospel”がそれだ。Amazonの視聴部分で、映画と同様のパートを聴くことができる。

さて、これにて一件落着……すればよかったのだが、この問題が解決するまでの短い間に、私は色々なことを思い起こす羽目になった。それは次のような具合だ。

実は『モンスターズ・ユニバーシティ』のサウンドトラックは、映画の中では強い存在感があって前面に出てくるが、CDで聴くと非常に味気なくあっさりしている。どこか物足りなさを感じるのだ。そしてその一方で、『モンスターズ・インク』の音楽は、劇中でも主張が比較的弱く、しかし噛めば噛むほど魅力が溢れ出てくる。
無論、「そんなことはない、『モンスターズ・インク』の音楽は印象も鮮烈でメロディが印象的だ!」という人もいるだろう。私も今ではそう思っている。しかし、当時感じたこの違和感は一体何なのだろう? どうして当時の私は、「インク」の音楽がシーンと合致していないと感じたのだろう? それは、今感じている、「ユニバーシティ」に対する違和感と関係があるのではないか?

2001年の「インク」と13年の「ユニバーシティ」にはおよそ10年のブランクがあるが、作曲者は同じである。とすれば考えうるのは、時代の変化がもたらした影響である。

本日は、『モンスターズ・ユニバーシティ』のサウンドトラックに端を発してバックグラウンドミュージックについて考え、さまざまなエンターテイメントの現代の在り方と変容を目の当たりにする。そして、社会が持つある種の「無駄」について考える。時々、本筋から逸れた音楽の紹介も兼ねながら、ぜひ時間のあるときに、音楽でも聴きながらご覧いただきたい。

バックグラウンドミュージックとは

特定の空間環境の中に組み込まれた音響および音楽の総称。BGMの略称も使われている。1960年代までは,本来は音のない環境に一定の目的をもって組み込んだ音楽を指した。第2次世界大戦中に,勤労動員で工場で働く人の疲労を和らげ,事故を減少させるために作られたBBCの番組は,その典型である。

バックグラウンド・ミュージックとは - コトバンク

バックグラウンドミュージックの略称として、以下ではBGMを用いる。
今や馴染みのある表現「BGM」だが、音のない空間に意図的に音を加える目的で作られることが共通している。映画にしてもゲームにしても、アクションシーンで流れる音楽には高揚感とカタルシスがあるが、実際に飛行機の上とか敵のアジトで音楽が流れているわけではなかろう。そういう意味で、BGMというのはある種、エンターテイメントの持っているメタ的な性格であると言うことができる。

映画の音楽では、簡単なところで言えば、アクションシーンではテンポが速く切迫するようなもの、会話シーンでは落ち着いたものが選曲・作曲される。また、特定のキャラクターを象徴するメロディを設定してシーンごとに組み合わせて演奏したり、交互にシーンが切り替わるのに合わせて曲調がかわるがわる交代したりする。

最もわかり易い例として、ディズニー映画『白雪姫』のシーンを挙げる。

二分ほどのこのシーンでは、動物が扉から出てくるシーン、白雪姫が歩くシーン、動物たちが驚いて逃げていくシーンにそれぞれ印象的なメロディがあてられている。また、リスがくしゃみをしたり、動物が首を傾げたり、白雪姫が話したりするのに合わせて音楽が展開され、音の位置がきれいにあっている。

「ユニバーシティ」の矛盾

では、『モンスターズ・ユニバーシティ』のサウンドトラックはどうだろうか。ここでは、『モンスターズ・インク』と(やや無理があるが)比較して捉えることで、その特徴を考えたい。そこにあるのは、映画のコンテンツと音楽の親和性である。

『モンスターズ・ユニバーシティ』のBGMはマーチングバンドの風合いで作られており、大学という舞台に直接的にそぐうものになっている。この主観的なつながりが存在することで、映画を鑑賞している私たちも、音楽を違和感なくシーンと合成して解釈できる。言い換えれば、観客は、「大学でマーチング」という具体的で筋の通ったストーリーが想像できるということになる。

他方で『モンスターズ・インク』のBGMジャンルはおよそジャズと分類できる。しかし、「大学でマーチング」と異なり、「会社でジャズ」は直接的には成立しない。
もちろん、両者が全く無関係なわけではないだろう。「最近の子供は、映画やゲームなどの影響で脅かすのが難しくなっています」という台詞が映画の中でも存在するが、この映画を観ていた子供たちにとって、『モンスターズ・インク』の舞台である「会社」は「大人のもの」である。そういうわけで、「大人の音楽」としてジャズが登場するのは不自然ではない。
すなわちジャズの音楽は、直接映画の内容とは関係がないが、何かしらのメタファーであるとか、演出であるとかいうことになる。言わば、映画というフォーマットの土台に乗ったものということだ。

この言い方を反転すれば、「ユニバーシティ」のマーチングバンド音楽は、物語というコンテンツの土台に乗ったものとなる。
そして、作品の登場人物や物語と地続きの繋がりを持っているということは、キャラクターたちの歓声(や悲鳴)が混ざり合うことで、初めて音楽として成立するようになっていることを意味する。

さて、ここで、『モンスターズ・ユニバーシティ』の音楽が持つ全く矛盾した二つの性格が立ちはだかる。マーチ音楽は「物語を構成する一要素」として登場しており「小道具」性を帯びているわけだから、これ自体は音楽として独立した存在「ミュージック」でなければならない。しかし一方で、映画総体として観ると、歓声や悲鳴、あるいは観衆や大会の競技性といった他の映画的要素が存在しないと音楽として成立しない、「それ自体として不完全な音楽」ということになる。これでは、映画を構成する要素すなわち「バックグラウンド」であると捉えられてしまう。

東京ディズニーリゾートのアルバムの違和感

このような現象が、映画以外のbgmでどのように生じているか見てみよう。

例えば、東京ディズニーシーのアラビアンコーストというエリアにある「シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ」を考える。アトラクションで常に流れている「コンパス・オブ・ユア・ハート」は、アラン・メンケンが手掛けた知る人ぞ知る名曲である。この曲はいわば、「イッツ・ア・スモールワールド」の「小さな世界」、「カリブの海賊」の「ヨーホー」にあたるのだが……。
このアトラクションのライドスルー(アトラクションの音源)と、実際の録音を聴き比べてみよう。実は、前者には入っていないが後者にあたるアトラクションの生音ではよく聞こえる楽器がいくつかある。そのため、CDに収録の「コンパス・オブ・ユア・ハート」は、現地で実際に聴くよりも若干物足りない。

あるいは、世界の空をめぐる「ソアリン:ファンタスティック・フライト」もそうである。シーンを盛り上げる上で音楽はやはり重要な役割を担っているが、シーンの切り替えの度に登場する飛行機や鳥、あるいは鯨があげる水飛沫などが、豪快な音でシーンを区切っている。東京ディズニーシーの20周年を記念して登場したアルバムに同アトラクションのライドスルーが初めて収録されたが、シーン切り替え時には不自然なほど無音である。これはこれで趣があるが、どうも違和感は拭えない。

「完全なバックグラウンド」と「完全なミュージック」

無論、「ユニバーシティ」のBGMがバックグラウンドなのかミュージックなのか白黒つけるのは非常に難しいだろう。「インク」についても同じことが言える。現実的なところでは、どちらの音楽はバックグラウンドとしての役割が大きいとか、ミュージック的性格が強いとか、そういうことで折り合いをつけるしかない。

しかし、完全なる環境音としての音楽や、完全なるBGMとしての音楽もある。こうした点で非常に成功しているのは、東京ディズニーシーのロストリバーデルタである。
敢えて強調した言い方をすれば、ロストリバーデルタには、バックグラウンド的側面“しか”持たない音楽としてラジオCRDが、ミュージック的側面“しか”持たない音楽として「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー:クリスタルスカルの魔宮」がある。

ラジオCRDには、メキシコからアルゼンチンまでの中南米音楽が完全にミックスされている。ラジオという体裁を取っているから、文脈のつながっていない音楽を次々に流しても問題はないし、間に入るアナウンスは広告やニュースを模している。放送エリアも、アンドリュー大学のキャンプ基地を模した「ユカタン・ベースキャンプ・グリル」や「ディズニーシー・トランジットスチーマーライン」の船着場に併設された事務所、それに「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー」のジョーンズ博士のデスクなど、(もちろん舞台となっている1930年代に流通していた型の)ラジオ筐体が置かれていて、ラジオを流しうるシチュエーションに限られる。つまり、ここでBGMを流す理由というのは完全に物語の中で完結していると言えるのだ。

ここで少し寄り道をして、ラジオCRDにミックスされているラテン・アメリカの音楽を紹介してみよう。
カルロス・ガルデルは、タンゴの楽曲で名を馳せたアルゼンチンの英雄である。数多くの楽曲を輩出してアルゼンチンタンゴの基礎を築いたため、今では彼の楽曲抜きでアルゼンチンタンゴのセットリストを組むのが困難とまで言われる。そんな彼は、1935年に飛行機事故で命を落とした。ロストリバーデルタにはインディ・ジョーンズ博士も水上飛行機に乗ってやってきているし、ピラニア航空という会社のハンガーもあるから、縁深く感じられる。ラジオCRDでは彼の曲が二曲放送されているから要チェック(チェケラー)だ。
そのほかにはペルーのワイニョ、カリブ海諸島のソンといった音楽が選曲されている。特にワイニョは比較的多くの割合を占めるし、ソンの演奏されるカリブ海地域はお隣のエリアであるマーメイドラグーンとも結びつきがある。さらに楽曲はメキシコのマリアッチからアメリカ合衆国との国境近くまで上るが、これらの地域は言うまでもなく、ロストリバーデルタの舞台であるユカタン半島と非常に近い位置にある。これら全体は「ラテン・アメリカ音楽」というかなり広い文脈のみしか共有していないが、ラジオという体裁で放送されることでむしろその多様性がうまく利用されることになった。

左「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー:クリスタルスカルの魔宮」
中「ユカタン・ベースキャンプ・グリル」
右「ディズニーシー・トランジットスチーマーライン事務所」

さて、他方「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー」について考えてみると、これは全くの反対であることがわかる。有り体を気にせずに言えば、ラテン・アメリカのジャングルでマーチ音楽が流れていることはあり得ないのである。このアトラクションは待機列ではおどろおどろしい空洞音や神殿の罠が作動する音がして静謐を漂わせている。小さなスピーカーから発されるアナウンスなども、正に「効果音」として演出されている。だがしかし、一旦乗り物に乗ると、そこからは完全に映画「インディ・ジョーンズ」シリーズである。“映画「インディ・ジョーンズ」シリーズの世界に入る”のではない、“「インディ・ジョーンズ」シリーズという「映画のお約束」を体験する”のである。舞台は1930年代の中央アメリカから一気に飛んで、1980年代のハリウッドになる。ハリソン・フォードやスティーブン・スピルバーグ、そしてジョージ・ルーカスの視点を体験するようなものだ。
その証拠に、例えば、アトラクション内の骸骨の動きは、映画における罠にかかった先代探検家たちのそれに似ている。また、虫がまとわりつく洞窟、揺れる吊り橋といった演出は、どの「インディ・ジョーンズ」を観ても登場する。扉から手前に出てくる稲妻、スモーク、大岩の演出は一作目を、巨大な骸骨の祭壇や谷を囲んだ儀式のステージは、直接的に二作目を連想させる。

これらのアトラクションの仕掛けに加えて、極め付けには、アトラクションの入り口やポスターには“The Legend Continues... From Disney and George Lucas”「ディズニーとジョージ・ルーカスがおおくりする伝説は続く…」と丁寧にも書かれていた。

「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー:クリスタルスカルの魔宮」看板

ゲームBGMの今「これはゲームではない」

さて、これまで紹介してきた映画やテーマパークのBGM以外にも、バックグラウンドミュージックを聴く機会はある。2020年の東京オリンピックを誘致する際に使われた「スーパーマリオブラザーズ」の楽曲、同大会の入場行進で使われた「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」シリーズなどの楽曲は、最早誰もが知っているのではないか。そう、ビデオゲームの音楽である。

「マリオ」「ドラクエ」で挙げたようなビデオゲーム初期の音楽では、ゲーム筐体の性能による制限を受け、音質や同時に使用できるサウンドの数に限りがあった。それ故、初期のゲーム音楽は、映画の音楽と異なる形で「バックグラウンド」の役割を担うことになった。
しかし、現代のゲームの音楽は今や使用できる音の幅が限りなく広がり、データ管理システムやハードも進化したことで、多様化の一途を辿っている。

例えば、従来のゲーム音楽の特徴を引き継いだ「バックグラウンド」ながら、正統な進化を遂げてきた音楽として、真っ先に名を挙げられるのは「Newスーパーマリオブラザーズ」シリーズである。

「NewスーパーマリオブラザーズU」の紹介映像で使われている実際のゲームBGMから、楽器の種類を具体的に言い当てることは難しい。また、マリオやピーチ姫の住む世界と直接的に地続きの関係性があるわけではなく、あくまで「マリオのゲーム音楽」として洗練されていると言える。

他方で、「バックグラウンド」以上に「ミュージック」の性格を帯びるのは、同じ任天堂のゲームでも「スプラトゥーン」シリーズである。
このシリーズは、「インクを使った陣取りゲーム」というルールを正当化するために「海面上昇によって人類が絶滅した後、イカとタコが地上の覇権を握り、減少した陸地を取り合い争った」という歴史が設定されている。そして、それが二回り前の過去となった現代、「ナワバリバトル」は若者の最も“イカした”スポーツとして認知されている。

「スプラトゥーン」シリーズが長い人気を博した理由として、ゲーム風に言えば「プレイできるステージや装備、武器アップデートで随時追加される」ことが挙げられる。
そして、「システムアップデートの度に新たな要素が随時追加される」というのは、音楽もその例に漏れない。「スプラトゥーン」シリーズで流れている音楽はいずれも、イカやタコが話している言語で歌われている。

ゲームに新たなBGMが追加される際、「スプラトゥーン」シリーズでは、「架空のバンド」「そのバンドのアルバムアートワーク」「各メンバーのプロフィール」が用意されている。そして、既にゲームに追加されているバンドの系譜の上に置かれ、カウンター先として相手取る別のバンドも存在する。
例えば上の例は、2015年発売の「スプラトゥーン」で登場したバンド「Hightide Era」である。2017年、続編の「スプラトゥーン2」では「カレントリップ」が登場したが、彼女らは「Hightide Era」に影響を受けている(という設定)。アートワークの服装からしてそうである。彼らの系譜は「スプラトゥーン」や「スプラトゥーン2」の主題歌に代表されるような正統派のロック音楽に対して、ピアノを活用した知性を感じさせる音楽で対抗する。これらは時系列順で展開され(一作目→二作目は時系列が矛盾せず、したがって「Hightide Era」→「カレントリップ」の登場順序も再現される)、SNS上で話題にされる。
こうした点において、「スプラトゥーン」シリーズでは、ゲーム内で音楽が演奏されるのに十分なほどの理由を与えており、物語世界を拡張するための小道具として音楽を使用している。

ちなみに、殊にゲームの世界において、音楽はさらに別の役割を担う。映画というのは多くの場合ストーリーを伝えることそれ自体が目的となっているが、ゲームは本来ゲームである。ストーリーによる導入を受けるのは、初期のゲームでは必ずしも一般的ではなかったし、「テトリス」などの単純なパズルゲームは、複雑な理由づけを廃してゲームそれ自体として発売されることが多い。それ故に、映画の世界では同一視されていた機能は分類される(『モンスターズ・インク』の例を思い出してほしい)。すなわち、「演出のための音楽」=「バックグラウンド」は、「物語を効果的に伝えるための音楽」と「フォーマットのルールを教えるための音楽」に分かれる。

「Katana ZERO」は、2019年にSteamとNintendo Switchで登場した横スクロールのアクションゲームである。

このゲームでは、「ドラゴン」と呼ばれ恐れられた暗殺者が、精神安定薬の副作用で「予知能力」を手にする。これを使って、ケアラー兼雇い主の男による暗殺指示を次々とこなしていく設定だ。主人公の男が建物の入り口でイヤホンをつけてカセットテープを再生するとゲームにも音楽が流れ始める。この演出から、ゲームBGMがストーリーの中のものであることが示唆されている。
ゲームとしては、任意のタイミングでアクションをスロー再生にし、銃弾を打ち返したり回転している換気扇の羽をすり抜けたりと、ギリギリのタイミングゲームを狙ったりすることが求められる。そのため、「Katana ZERO」の音楽は物語上の小道具であると同時に、ゲームシステム上重要な「スローモーションのシーン」をはっきりと認識させるためのインディケータとしても役に立っているのだ。巻き戻しができるカセットテープという設定も、そこからきたのだろう。

逆に、ゲームであるものを別のメディアのように見せてしまう方法もある。非常(非情?)に難易度の高いことで有名な「カップヘッド」は、1930年代のカートゥーンアニメにオマージュを捧げている。映像の画質、キャラクターのデザインだけでなく、音楽を使ってもその世界観を演出している。

こうした音楽自体は、「カップヘッド」の物語と大きく関係してはいない。しかし、「1930年代の映画」というテーマを基にキャラクター、ストーリー、音楽が構成されている点で、この音楽は、ゲームから映画へとフォーマットのすり替えを行う意味を持っている。「ゲームっぽくない音楽」を作ることで、逆説的に「これは単なるゲームではない」ことを証明することになった。

メタである、しかしリアルである

さて、作品を整理しよう。BGMとは背景音楽のことで、本来ならば音声の流れている必要のない場所に入れ込まれる音である。基本的には、映画やディズニーテーマパークならば物語を伝えること、ゲームならばゲームシステムとリンクしていることを求められる。
BGMの機能を分解していくと、表現したい世界やコンテンツと強く結びついた「バックグラウンド」と、映画やアトラクション、ゲームといったフォーマットにおいて必要に駆られて表現される「ミュージック」が考えられた。「バックグラウンド」としては『モンスターズ・ユニバーシティ』やロストリバーデルタの「ラジオCRD」、「スプラトゥーン」シリーズ、それに「Katana ZERO」が挙げられ、これらの作品の中では、音楽を流す理由をコンテンツ自身が説明していた。そのため、物語と音楽は直接的に地続きになっていた。「ミュージック」としては『モンスターズ・インク』や「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー」、「Newスーパーマリオブラザーズ」シリーズ、やや変則的には「カップヘッド」が挙げられる。これらはコンテンツと地続きではないけれども、フォーマットや作り手、作品そのものという存在のメタ的なメッセージや伝統を通じて、間接的にコンテンツとつながっている。

さて、殊に前者のような作品は近年増加傾向にあり、音楽はその総合演出の一端を担っているに過ぎないとも言える。

「マーベル・シネマティック・ユニバース」は、映画28作品とドラマ6作品の集合である。「集合である」というのはどういうことかというと──最早説明は不要かもしれないが──「ユニバース」=「世界」と名前がついている通り、これらの作品群は共通した設定の上に成り立っているということだ。いわゆる「アベンジャーズ」のこと。
『アイアンマン』『インクレディブル・ハルク』『マイティ・ソー』『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』など、複数の映画の中でコラボレーションが生じる。例えば『アイアンマン』のロバート・ダウニー・Jr.演じるトニー・スタークが『インクレディブル・ハルク』に、『アイアンマン2』のクラーク・グレッグ演じるフィル・コールソンというエージェントが『マイティ・ソー』に登場する。これならば単にコラボレーションのように思えるが、ここまでに登場したキャラクターが自身の作品で説明された経緯を受けて最初の映画『アベンジャーズ』で一堂に会する。この映画で描かれた戦いの後に生じた物理・精神のさまざまな問題が続編作品『アイアンマン3』『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』『キャプテン・アメリカ/ウインター・ソルジャー』などで明かされ、解決が志向される。『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』で問題は更に拡大し、後の「インフィニティ・ウォー」「エンドゲーム」へと向かっていく。他方、その間に『アントマン』『ドクター・ストレンジ』『スパイダーマン:ホームカミング』『ブラックパンサー』などの映画が追加され、彼らも仲間入りしていくという流れになっている。

これらの映画が持っているのは──そして、のちに触れる二者と共通しているのは──以下の二点である。
一つは、そこに見られる通時性である。2012年に公開された映画『アベンジャーズ』の舞台は2012年だし、2018年に公開された「インフィニティ・ウォー」は2018年だ。そして、それぞれの映画は、この時代設定に引っ張り上げられる形で進んでいく。すなわち、多少の前後はあるが、我々は、我々の日常世界で時間が進んでいくのと並行して「マーベル・シネマティック・ユニバース」の中での時間の流れを直接体験することになるのだ。
二つ目に、徹底的な「ユニバース」主義、つながりと必然性、因果関係をテーマとする世界観だ。『マイティ・ソー/バトルロイヤル』というソーの映画にドクター・ストレンジが登場するのは何故か。その経緯が、彼自身の映画である『ドクター・ストレンジ』で紹介されている。『スパイダーマン:ホームカミング』でピーター・パーカーの物語が始まるのは、前作『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』の中で、『アイアンマン』シリーズのトニー・スタークに影響を受けたからである。なんだこれ、説明していてよくわからないな。逆に、映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』で宇宙を彷徨っている同名のアウトロー集団と、アフリカ大陸の秘密の独立国が舞台の『ブラックパンサー』の登場人物は、ほとんど交わることがない。それは、彼らが交わるに足るだけの理由づけが未だ行われていないからだ。「マリオカート8」に、「ゼルダの伝説」シリーズのリンクや「どうぶつの森」シリーズの村人が突然登場するのとは違うのだ。
このように、登場人物、団体、出来事などを共有してネットワークを形成しながらまるで本物のように振る舞わせ、かつこれと現実世界をきちんとリンクさせて展開した物語は、近年非常に需要があると思われる。

近年の東京ディズニーリゾート、あるいは世界のディズニーパークのトレンドもそうだ。
従来、ディズニーランドや東京ディズニーランドで展開されていたテーマランドとして、例えば「ファンタジーランド」や「トゥモローランド」があるが、これらは言わば「御伽噺」とか「未来」といった概念の具現化である。具体的な地名をもらっていたとしても、「アドベンチャーランド」や「ウエスタンランド」(東京以外では「フロンティアランド」)は「冒険」や「西部劇」の再現をしている。
では、近年の例ではどうだろうか。2012年には、ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーに「カーズランド」が登場し、ピクサー映画『カーズ』の世界を再現した。このように、ディズニー映画の舞台となる街を丸ごと再現したテーマエリアは、近年大きな話題となっている。
2019年、アメリカ合衆国のディズニーランドやディズニー・ハリウッド・スタジオにオープンした「スター・ウォーズ:ギャラクシーズ・エッジ」である。ここでは、「スター・ウォーズ」映画シリーズと世界観を共有したオリジナルの惑星であるバトゥーを再現した。またディズニー・ハリウッド・スタジオ版には「スター・ウォーズ:ギャラクティック・スタークルーザー」というホテルが併設された。このホテルでは、宇宙船に乗って二泊三日の旅行を楽しむことができ、宇宙船を模した館内では、「スター・ウォーズ」シリーズに登場する様々な種族の乗客と交流することができる。
東京ディズニーリゾートであれば、2001年にオープンした東京ディズニーシーがある。また、2020年秋に東京ディズニーランドにオープンした「ニュー・ファンタジーランド」では、エリア全体を通して映画『美女と野獣』の街並みを表現した。

東京ディズニーランドのニュー・ファンタジーランド

こうしたテーマエリアでは、遊園地のように遊具を置けば良いわけではなく、テーマパークのように特定のテーマのアトラクションをソートして集めれば良いわけでもない。どの施設にどのようなテーマパーク的性格を持たせるかに注意する必要がある。それはレストランかもしれないし、アトラクションかもしれないし、はたまたホテルかもしれない。詳しくは、筆者による以下の記事を参考にされたい。

アトラクション、レストラン、ショップは、共通の人物や事象を融通して把握しているというわけである。テーマエリア自体が共通した地理的共通性を持っていて、東京ディズニーランドのテーマランドのようなメタ世界ではなく、あくまで「世界」として存在している。

一日の計はポスターにあり【ディズニーランドの入り口で①】|TamifuruD(たみふるD)|note

例えばアメリカンウォーターフロントは「船乗り同士、アメリカ東海岸、1912年。何も起きないはずがなく…」というテーマです。だから、アトラクションを作るときは「1912年のニューヨーク」という設定に合わせてストーリーを作ります。
つまり、物語の舞台に合わせて集めているんですね。テーマエリアのことを東京ディズニーシーではテーマポート=港と呼んでいて、それぞれの土地には成り立ちの物語があり、今の姿があり、有名人がいる。我々はアトラクションやレストランを通してその世界での出来事を体験する。これが東京ディズニーシーと言えるんじゃなかろうかと。

ニヒルな旅をしようじゃないか【ディズニーシーレポ①】|TamifuruD(たみふるD)|note

アメリカンウォーターフロントの場合、「フリーフォール型アトラクションに乗って、サンドを食べて」という代わりに、「タワー・オブ・テラーのホテル見学ツアーに行って、帰りにニューヨーク・デリに寄ってきた」という言い方ができる。これは、遊園地やテーマパークというシステムを、ニューヨークという都市の中に上手く変装させて設置しているのだ。だから我々は、現実世界で観光を楽しむ感覚でこれらのテーマポートを楽しむことができるのである。

テーマパークの地図と街の地図がほぼ一致している(アメリカンウォーターフロント)

また、先に紹介した「スプラトゥーン」シリーズも、これと同様の性格を持っている。
「Hightide Era」と「カレントリップ」の関係性について紹介した通り、「スプラトゥーン」シリーズでは、アップデートによって新たな武器や服装が追加され、武器の微調整も相まってSNS上でトレンドが形成されていく。注意したいのは、オフィシャルなSNS上でのアナウンスとイカタコ世界の用語集が見事に対応関係にあるということである。言わば、「スプラトゥーン」シリーズの世界が実在し、その中にいるかのような口ぶりであるということだ。

こうしたワクワクするアナウンス(多くのプレイヤーは「デボン海洋博物館」にはだいぶイライラしたようだが)だけでなく、時には緊張感と不気味さの漂う演出もなされる。

更に、装備に当たる「ギア」と「ブキ」も、それぞれブランドが設定されており、特に「ギア」のブランドは前面に押し出されている。

さらには、それぞれのブランドがコラボをすることもある。

こうした広報が網羅的・ネットワーク的に展開していき、さらにそれがリアルタイム性を持っていることは、単にゲームシステム上の「武器」である存在たちに必然性を与える上で非常に重要であると私は考える。

もうひとつの世界

さて、こうした面から窺い知ることができるのは、作品というものが我々の世界やその一部を再現したある種の“箱庭”として非常に重要視されているということ──端的に言って仕舞えば、「リアリティ」が作品の評価に大きな影響力を持っているということだ。この理由は一体何であろうか。枚挙に遑がないこの理由、共通した鍵となるのは、インターネットとスマートフォンの普及である。

ひとつには、物語のフォーマットの面で次のようなことが言える。技術力の加速度的な上昇、インターネットとスマートフォンの普及は、端的に「できることが増える」ことを意味する。これにより作品メディアの数は急増し、物語は多様な形をとるようになっていく。
例えば、かつてより存在していたフォーマットを再利用することで、物語の語り口を変容させようという試みが登場してきた。音楽原作キャラクターラッププロジェクト「ヒプノシスマイク」は、その触れ込みの通り「音楽原作」である。これは、ストリートカルチャー、ポップカルチャー、サブカルチャーを主題とした作品であり、ラッパー同士がお互いの素性や関係性をもとに紡ぐリリック(歌詞)から、物語を読み解こうという趣旨である。サウンドトラックやアニメ、漫画、ゲームへとメディア展開しているが、あくまで物語の中心は「音楽」であるということになっている。

もうひとつ、判断材料の面では以下のことが言える。インターネットやスマートフォンの普及で、我々は手軽に世界に触れることができるようになった。従来の我々が「世界」と呼んでいたものが、一地域、一都市、一地方、一国、そして一世界と段々広がり、現在では世界各地を舞台にした物語を当事者として受け入れられるようになった。2019年のコナン映画「紺青の拳」が記憶に新しい。この映画は、コナン映画で初めて全編国外を舞台とした。こうして物語が国外に移っても、作品は逞しい変奏(変装?)を行いながら完結することになったのだ。

物語とは理不尽なものである

最後に、この傾向──すなわち、物語に閉じた世界としての性質を求め、バックグラウンドミュージックさえ物語の中の存在として位置付けようとする傾向に、疑義を呈してみようと思う。

近年、物語に接する方法は大きく分けて二種類あり、うち一種は、物語をコミュニケーションのツールとして「使う」方法である。物語に求めているのはエンターテイメント性やアート性ではなく、あくまでプロットであり、それを「コンテンツ」すなわち内容物として消費することが目的となる。そのため、なるべく多くの物語を効率よく“こなし”、“履修”することが求められている。ただし、このことについては、以前の記事でよく触れているから、詳しくはご参照いただきたい。

もう一種は、物語をパズルとして「解読する」方法である。こうした方法で物語と接することを好む人々は、作者は物語の隅々まで意図を持って設計しており、ひとつひとつのものには全て特定の意味があると考えている。それも特に、誰と誰は実は兄弟だったとか、このセリフがこう言う意味があるとか、物語の中の全てのものを系統樹の中に位置づけ、物語的意味合いを付加していくことが楽しまれている。
この考察の際は、「合理性」が非常に求められる。物語に完全な整合性を求め、全てには必ず解答が与えられるはずだ、あるいは模範解答が想定されるはずだ、という立場である。ホモ・エコノミクスのような存在を想定している彼らが、「マクガフィン」について知ったらどう思うだろう。「マクガフィン」は、映画における重要な──しかし中身のない──存在である。スパイ映画におけるUSBメモリ、アドベンチャー映画における宝石などのことである。『レイダース/失われた聖櫃』の聖櫃は、別にどのような形をしていても良い。それは棺桶なのか、壺なのか、水瓶なのか、麻袋に入っているのか──どれでも物語は成立する。あくまで、インディ・ジョーンズ博士とベロック博士の一味が取り合う「オタカラ」があれば良いだけだ。この用語を借用すれば、マーベル・シネマティック・ユニバースでは、映画Aにおけるマクガフィンが映画Bにおいて重要になり、BのマクガフィンはCにおいて重要になり……という構成になっている。

ところが、この際──物語を鑑賞する際、しばしば見落とされることがある。それは、物語が作られる目的はもっと多種多様な広がりを持ったものであり、作り手によって全く異なると言うことである。それが、特定のメッセージを伝えるための信号であることもあれば、ある人物、モノ、作品に向けた個人的なラブレターかもしれない。単に思いついたことを書き留めているだけかもしれない。
つまり、物語そのものは必ずしも「合理的」ではないのだ。
にもかかわらず、近年、我々はそうした単純明快で簡潔(完結)な説明を求めてしまう。この転倒は奇妙だ。複雑であることが、かえって単純なのだ。「事態は複雑だ」から始まる説明によって説明が一度はじまったとしても、それに終わりをつけてしまうこと自体が、世界を有限なものたらしめてしまうと言える。「複雑な物語」として閉じた世界になってしまった時点で、「複雑な物語」は「単純」なのだ。

冒頭で触れた『モンスターズ・ユニバーシティ』の話に立ち返ってみても話は至ってシンプルである。『モンスターズ・ユニバーシティ』の音楽は、物語の要請を受けている。「大学」という舞台に対してマーチングバンドが想定されており、直接的なつながりを持って作られている。だから、作られた音楽は、その物語の外に出ることがない。「物語の中の存在は、物語それ自体になり得ない」のだ。音楽が従属的な存在であることになってしまい、個別に取り外して「ミュージック」と呼ぶことのできない存在になっている。そして同時に、物語と切り離すことができないという点では「バックグラウンド」ですらなくなっている。この音楽は、物語の一部なのだ。話はそれだけだったのだ。(念の為擁護すれば、もちろん、これはすぐさま「『モンスターズ・ユニバーシティ』の音楽は『音楽』に非ず!」という極論に結びつくわけではない。あくまで論理的な認識上の話であり、別の土台から論理を組めば、きちんと音楽として成立するはずである)。

では、逆を考えよう。『モンスターズ・インク』の映画音楽が今でもさまざまな場所で演奏されているのは、その曲が映画の文脈から自由であるからではなかろうか。音楽は映画に文脈を委ねず、逆に音楽が映画から文脈を吸い上げ、色づいている。「会社」と「ジャズ」、どちらが先なのか。これを考えることは若干無益であろう。だが、一面的に言えば、「ジャズ」が「会社」という存在の見方を「大人のもの」と規定している。正に、これこそ「バックグラウンド」なのであり、同時に「ミュージック」たり得るものなのだ。2020年、東京ディズニーランドのエントランスでは新たにこの曲が流れ始めたことは、記憶に新しい。

文脈から「自由である」ということ

ここで、筆者の持論も、まるでメビウスの輪のように裏返しになる。過去の記事でも触れている通り、私は、統括的で包括的な物語の展開によって時代の最先端を切り拓く東京ディズニーリゾートに心底感激し、常にその秘密を追い求め、そこから現代社会に適合できる普遍的な教えを乞うてきた。そしてそれはさまざまな「つながり」や「偶然」を根拠としてきた。ハリソン・ハイタワー三世とシリキ・ウトゥンドゥ、「ソアリン:ファンタスティック・フライト」と東京ディズニーシー、ワールドバザールとウォルト・ディズニーの人生、そして東京ディズニーリゾートと現代社会というように……。

だが、実際は逆なのだ。東京ディズニーリゾートの真髄がどこにあるか、それは、何かと何かがつながることではなく、何かと何かがつながらないところに求めるべきなのではなかろうか。着目すべきは、建物にディズニー社やオリエンタルランド社の役員の名前が刻まれていることではなく、その建物が存在することである。ハリソン・ハイタワー三世がシリキ・ウトゥンドゥを手に入れたということではなく、物語に偶像の存在が登場するのを正当化するために膨大な数の骨董品をホテルに配置したことである。我々に答えを与えず、それを想像させるということである。

ウォルト・E・ディズニーの名前と、株式会社オリエンタルランドの名前、その社長たち(に気を取られ、ゲストが入れないはずの二階の窓の明かりが点いていることに気が付かない)

我々の暮らしにおいても、そうしたレベルでの議論がなされるべきではなかろうか? やはりこれは転倒していると思われるかもしれない。今日の食事がなくて、どうして明日の食事の話ができようか。否、これは無駄なのではない。我々がそこに、意味を与えるのだ。そうしたものを我々は持つべきではなかろうか。不要なものを持つと、かえって心にゆとりができる。想像力の翼をさずけてくれるそうしたものを、東京ディズニーリゾートではこう呼ぶ。「バックグラウンドストーリー」と。

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