学校に行く意味を再考する

学校に行く意味を、今、再考する。

「どうして勉強するんだろう」
「勉強する意味は何だろう」
「このまま受験勉強をする意味はあるんだろうか」

私にとっての問題はここにあった。この疑問を解決すべく、休校していた4月から6月は心を病みに病んで、学校が始まってからは終始苛ついていた。側から見れば、受験生特有の焦燥感に見えたかも知れないが、実を言えばその原因菌は少数派だったと自覚している。
一体何が問題で、このような悩みが生じたのか。その理由は次のものに集約される。
「学校に行かなくても、受験勉強出来るじゃん」
学校からメールでテキストが送られてきて、プラットフォームに回答を入力すると、先生方が採点してリプライしてくれる。映像授業を用いれば、同じ学校の先生方の授業でなくても代替が効く。
「学校に行かなくてもいいかも」
あの6月、学校への登校が再開してから、私は本気でそう考えるようになったのである。

何故「学校に行く意味」を考えるのか

何故「学校に行く意味」を考えるのか。そして、何故、今なのか。その理由は上述した通りであるが、そこに更に2つ加えて3つの理由を挙げてみる。

第一には、重複するが、2020年の新型コロナウイルスにより我々は学校というもののシステムを再考させられたからだ。教室という現場に出向いて、6時間の授業を受け、部活動を行って帰る。
新型コロナウイルスの影響を受け、これまで、映像授業の制作から学校行事・部活動の中止まで、学校により様々な対策が取られてきた。
従来式の学校しか知る由もない我々は、こうした対策を(精度の程度こそあれど)致し方ないものと考えている。無論、一部の当事者(つまり学生たち)は、かけがえのない時間を予想と反する形で過ごすことになり怒り心頭であるわけだが。
だが、そもそも「学校に行くのは何故か」という本質的な部分が分かっていないと、「変更していい部分」と「変更してはいけない部分」の違いが分からなくなる。だから、「学校に行くのは何故か」という、謂わば学校の定義が必要とされるのである。そして、その定義を明らかにした上で、加筆修正を行うのではなく、寧ろ新たに、新時代の学校の青写真を書き上げなければならない。

第二には、上の理由を更に拡大解釈することが可能だからだ。
学校で起きる問題は無数である。「いじめ」という言葉でやんわりと形容され、消滅することのない犯罪行為や、そこから派生する不登校問題、或いは私生活に過度な制限を加える校則、授業料や奨学金の負担額を巡る問題、教員を取り巻く危機的労働環境……そのどれもが長らく解決が求められながら、同時に、解決されなかった問題だ。
こうした問題がどうして起こるのか、どこまでの対応が可能なのか、というのは、学校の定義が共有されないと議論出来ないものであろう。

第三に、特に小中学校は義務教育として、高校・大学は日本人の多くが卒業するものとして、専門学校はプロフェッショナルを育成する場として、学校は社会に出る全ての人間の由来として参照されるものだからだ。
どれだけ美しく鮮やかな絵具も、泥水で溶かれてはたまらない。社会に蔓延る諸問題は、その多くが学校を通じた思想形成(下手をすれば洗脳)によって生まれるものであって、学校の方針が変われば十年後の社会の方針は変わるのである。

名実伴う

私は、映画を観るのが好きだ。
映画館を訪れるのは、私にとって日常のささやかな楽しみのひとつだ。新型コロナウイルスの影響でその機会が著しく減少しても尚、数ヶ月に一度は訪れている。
然し、回数の減少はどのみち私にとって死活問題であった。否、正確には、度重なる新作映画の公開延期・キャンセルが直接的な原因だったかもしれない。

そんな私を救ったのが、dTVやNetflix、そしてDisney+であった。ストリーミングサービスを用いて二週間に一度は映画を鑑賞する。英語の音声に日本語の字幕を併せて鑑賞しており、勉強の合間の休憩を兼ねながら、英語の読解力やリスニング力を高める目的がある。

1週間、或いは2週間に1度の映画鑑賞時、私が必ず用意するのが、炭酸飲料とポップコーンである。用意に時間がかかることは、想像に容易い。映画を観ようと思い立っても、実際に観始めるまでには15分ほどを要する。映画業界の15分は命取りだ。私の大好きなディズニーやピクサーの映画は多くが90分から100分程度だが、一部は120分(二時間)程度、「ハリー・ポッター」シリーズをはじめとして他会社の実写作品では150分かかるものも珍しくない。映画を観終わる時間(多くの場合これは就寝時間)を揃える前提で15分を棒に振ると、観ることの出来る映画の数は大幅に減少する。

それでも私がドクター・ペッパーのお得缶とコストコで購入した体に悪いポップコーンを必要とする理由は、次のものある。

私は「映画」が好きだ。だが、それ以上に「映画体験」が好きなのだ。

映画館に入り、自販機でチケットを購入する。売店でバターをたっぷりかけたポップコーンを受け取り、シアターへ入る。前から4列目のD席やE席に座り、予告編を待っていると部屋が暗くなる――この体験をするために私は映画を観ているのだ。

だから、(少なくとも私にとって)映画とは「映像」のことでもなければ「物語」のことでもない。「映像や物語、音楽を、映画館で楽しむ」というある種の「体験」のことだ。

このことは、どの世界でも起こりうる。例えば、次の場合を想像して欲しい。
あなたは友人A、友人Bと三人で東京ディズニーランドを訪れる。ところが、取得を予定していた日付の日付指定チケットは、売り切れていた。翌日のものならば取得できるが、その日は友人Aの都合が悪く、二人でパークへ向かうことになる。この機会を逃すと、友人Aとも、友人Bとも暫くは会えなさそうだ。あなたならどうする?
①翌日、東京ディズニーランドへ行く
②当日、東京ディズニーシーへ行く
前者を選んだ場合と、後者を選んだ場合では、「東京ディズニーランドへ行く」という行為の意味が全く異なってくる。前者では、友人Aが尊い犠牲となる代わりに、あなたは東京ディズニーランド入園を果たすことができる予定だ。この場合、優先順位では東京ディズニーランドが優位にあって、旅行の目的は「東京ディズニーランドへ行くこと」になる。
一方の後者では、建前上「東京ディズニーランドへ行くこと」が目的のように思われていた旅行の、真の姿が現れる。旅行先は東京ディズニーシーでも代替可能なのであるという状況に於いて、ここでは、友人Aの方が優先されており、「東京ディズニーランドへ行く」という本来的な目的は建前と化す――丁度私が「映画を観る」ことを建前として、「映画体験をする」ことを目的とするように。

第四十一条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。
第四十二条 高等学校における教育については、前条の目的を実現するために、左の各号に掲げる目標の達成に努めなければならないい。
 一 中学校における教育の成果をさらに発展拡充させて、国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと。
 二 社会において果さなければならない使命の自覚に基き、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させること。
 三 社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること。
(引用:『学校教育法(昭和二十二年三月二十九日法律第二十六号)』第四章 高等学校/文部科学省/※誤字は原文ママ引用)

つまり、学校に行く目的とは本音と建前を併せ持つ複雑なものであり、これを分解して考える必要があるのである。
学校で行われる教育のうち、最も多くの時間を占めるのが「授業」である。一般化していることも期待し、ここでは「授業」を学校に行くべき理由の「建前」、つまり表向きの理由としてみる。

学校の授業は「受ける意味がない」?

先ず、学校に行く建前上の理由である「授業」について考える。多くの場合、50分が1日6回、1日に300分、それを5日間とカウントすれば、一週間で授業時間は1500分、4週間を1ヶ月と見なせば6000分。これは100時間に当たる。

さて、これだけ多くの時間が費やされる授業なのだが、現在では学校の授業を受ける意味が殆どなくなっていると私は思う。

インターネットの世界に飛び出せば遥かに分かりやすい解説を読むことが出来るし、膨大な量の練習問題にアクセスできる。そして、YouTubeには多種多様な映像授業が溢れかえっているし、スマートフォンひとつで高品質な授業を受ける方法は枚挙に暇がない。
従って、スマートフォンの利用を制限されながら膨大な量の教科書を運び、紙を無駄にして大量のプリントが刷られる意味は、全くと言って良いほどない。金の斧と鉄の斧なら、金の斧が欲しいのは当たり前ではないだろうか。

この制度を擁護することは、三つの観点から可能である。

第一に、金銭的余裕から自由な学習環境にアクセスできない生徒にとって、学校は貴重な学びの場となる。この場合には確かに、学校で授業を受けることでその内容を学習する他、道はない。義務教育として国から支援されて学習できる機会は貴重だし、進学が一般化した高校に通うにも、多少の援助が期待できる。

第二に、インターネットを利用するための土台が形成できる。コロンブスについて知りたければ、そもそもコロンブスという単語を知っていなければいけない。解の公式を使いこなすには、解の公式というものの存在を知らなければいけない。インターネットはあくまで「検索した情報を提示」こそしてくれるが、「検索」そのものはしてくれない。元手となる情報を手にすることで一の知識は十になるが、ゼロの知識はゼロのままである。一を与えてくれる場としての学校は、大切である。

第三に、万一、もしもインターネット上にある情報で解決しなかった問題があった場合に、最終的に教員に答えを求めることが出来る。そして、純粋に、受ける授業の選択肢が増えること自体は悪いことではない。

然しながら、第一の理由は、決して広く通用するものではないと言える。そもそも、現在、高校生の99%がインターネットを利用しているとされているから、当の生徒にとって授業は煩わしいものになっている可能性がある。

引用:『平成30年度青少年のインターネット利用環境実態調査 調査結果(速報)』4ページ/政府統計

第二の理由として挙げられる元手の情報機能は、厳密には授業と直接関係するわけではない。冊子、或いはデータで配布して、それを随時参照してもらえばよい話である。

第三の理由についても否定は出来ないが、同時に肯定も出来ない。インターネットを用いれば寧ろ、有識者と直接連絡を取って解答をもらう事が出来るはずだ。学校がそういうシステムになれば、それを前提としたプラットフォームも開発が可能だろう。

そういうわけで、学校の授業それ自体の意味は、最早皆無に等しいと言える。
そうした意味で、教員は「講師」と「トレーナー」の役割を併せ持っていると言える。肯定的には、両者を兼ね備えているし、否定的には、ただ組み合わせたに過ぎない。授業を教える「講師」と、受験や日常、学習習慣のマネジメントをする「トレーナー」に分けることが出来、それぞれに対応する存在は学習塾や家庭教師が代替可能になりつつあるのだ。

ところで、上述している「学校は授業を受ける場所である」という論理が成立する条件として挙げた三つの例を、改めて見て欲しい。
①インターネットに接続されていない生徒のため
②インターネットで検索するための元手として
③授業選択肢を増やし、手軽に質問できる相手として
この三つには、欠けているもうひとつの項目がある。
これらの項目は、「インターネットがあるから、生徒は自分の意思で希望する授業を受けることができる」という前提に立った推論であるが、当の「生徒の意思」を考慮に入れれば、話は別である。
④自分の意思で学習しない生徒のため
これこそが、「生々しい現実」とでも呼ぶべき学校で授業を行う本当の理由なのではなかろうか。言い換えれば、「学校の授業を受けなくて良いのは、自分で授業を受けられる人のみ」ということになるわけである。

ここで問題となるのは、「どうして自分の意思で学習しない生徒が現れるのか?」である。この問題の解決は、次の章に譲ることにしよう。そこにあるのは、学校に行く「裏の目的」、本音と建前である。

教鞭を取る「裏の目的」は何か?

では、どうして教員は教壇に立つのだろうか。そして、授業をするのだろうか。それが、「建前」の理由の裏に隠れているもうひとつの理由だ。

それは「方法論を教える」為、である。

教員は、歴史の授業を通して、歴史そのものではなく「単語の覚え方」「流れの理解の方法」を披露する。英語の授業を通して、即戦力になる英語そのものではなく「論理的思考力」を教示する。
これを裏付けするのは、それらの力が「定期試験」「模試」という形で測定される点である。そして、大学受験では授業内容それ自体ではなく「どれだけ努力して学習したか」という文脈からこの能力が数値化され、学校に三年間通った証として指標のひとつになるという点である。

又、「授業」という建前の影に身を潜める休み時間、体育祭や文化祭などの行事、部活動などといった部分にもスポットが当てられる。ここでも同様に、スポーツをすることや食事を食べることそのものが目的とはなっていない。そこで人間関係を育み、社会性を身につけ、協調性を持って接することを学ぶ必要がある。謂わば「小社会」として機能している。

この考え方には一理ある一方、自然であるとはいえ、この観点に全く問題がないわけではない。

東京ディズニーランド・シーとは、正にその点で模範である。
従来型の遊園地では、遊具としてのジェットコースターはどこまで割り切ってもジェットコースターであった。然し、例えば、東京ディズニーランドの「スペース・マウンテン」では、ゲストはスペース・トラベラーとなって宇宙船で宇宙へ旅立つ。彼らはジェットコースターに乗るのではなく、宇宙船に乗船するのである。
このとき、「スペース・トラベラーの皆さん、ようこそ」というアナウンスはあくまで動機付けであり、メインディッシュはジェットコースターにあることを、ゲストはよく理解している。そうでなければ、アトラクションの待機列、キューラインを大幅に短縮する「ファストパス」なるものが成立するはずはない。彼らは、それらの物語がジェットコースターを演出するフィクションの物語であることを前提としている。
そこで、奇妙な現象が起きる。表現を変えたい。遊園地に於いては、客は「ジェットコースター」に乗っていた。然し、東京ディズニーランドでは「宇宙船」に乗るということになっている。そして、実際のゲストは最終的に「宇宙船を模したジェットコースター」に乗っている。そこでは二つのものに同時に跨っていることになるのだ。

その点、学校は(学校に行く目的を「方法論を教わること」と仮定するならば)そのようなケアが十分に行われているとは言えない。我々は往々にして化学式を覚えることに夢中になり、化学式そのものに価値があると思いこんでしまう。テルミドールのクーデタがいつ起こったのかという情報が必要だと思ってしまう。だが実際は、それを覚える過程に本質があり、覚えた化学式がH2OであろうとCO2であろうと関係ないし、テルミドールのクーデタがいつ起きたかを聞かれることは今後金輪際ない。我々は「宇宙船」に乗せられているのだが、それが「宇宙船の形をしたジェットコースター」であることは知らされない。「今から宇宙船に乗ってもらいます」と突然言われたら、それが大問題であることは明白であろうが、学校ではそれが平然と行われているのである。

この「『学校は方法論を教わる場所である』という前提が共有されていない」という事態が、生徒を学校嫌いにさせている。言い換えれば、これこそ、前章で指摘した「自分からすすんで学習しない生徒問題」の原因である。

世界史が好きな生徒からすれば、好きな人物の名前を「受験で必要ないので忘れてください」と一蹴されたら寂しいであろう。逆に、世界史が嫌いな生徒からすれば、知っても何にもならない人名を覚えこむことに価値を見出せず、やる気を喪失していくだろう。
つまり、「学校は方法論を教わる場所である」という前提が理解できていない生徒は、「覚える」「読解する」という行為が本質であるということに気付いていないために、「覚えるのが嫌い・苦手」「読むのが嫌い・苦手」という問題を「世界史が嫌い・苦手」「英語が嫌い・苦手」と誤認してしまうのである。これは、日本の――批判を恐れずに言えば世界の――学問の発展を阻害する大きな誤認である。
その生徒は若しかしたら、事件と事件を結びつけてその時代の色を読み解くのが上手な生徒であったかもしれない。又は、現代文小説に設問が存在せず、小論文形式であれば、素晴らしく含蓄の深い感想と考察と批評を生み出せたかもしれない。それにも関らず、彼らは「世界史はつまらない」「小説なんていらない」と思ってしまうのである。これを学問に対する暴行と呼ばずに何と呼んでくれようか。

学校がつまらないのは誰のせい?

誤解を恐れないように言おう。私は、生徒が悪いとは思わない。
生徒がそうした傾向に走るのは、教員の授業が、本当はスキルの習得を目的としているにも拘らず学問の姿で現れるからであって、それ故、授業がつまらなく見えるからである。

然し、授業がつまらないのは教員の責任ではない。それは、大学受験に向けた指導という業務とその指導要領の持つ謂わば欠点であり、教員の一存でどうこう解決できる問題ではないからだ。

二学期の期末試験を終えた我が高校では、試験と冬休みの間の穏やかで張り詰めていない風が吹いていた(私のような高校三年生は、本来大学受験に向けて緊張感があるべきなのだが、受験生は多くが授業を受けずに自宅で学習したがっているので、授業への身の入り方こそ一般並みだった)。
私の最も苦手とする科目が古典だ。世界史も苦手だが、あれは好きだからまだいい。古典は申し訳ないながら興味も抱く機会に恵まれず、尚且つ苦手とあって未だに成績は泣かず飛ばずだ。我が高校では、古典と国語演習の授業で、平行して二つのタイトルを進めていた。そのため、一週間に少なくとも七時間以上は授業があるわけだが、それでも、他の科目に比べて成績が著しく低かった。
然し、国語演習の先生は常に「残りの授業が消化試合にならないように、何か考えてきます」と言ってくれた。古典作品や近代文学の映像化作品を鑑賞しようか、などと、クラスにあれこれ提案してくれたのである。又、世界史の先生は「個人的な趣味に走ってしまいました」と言いながら、世界史の大学入試では一切登場しない(と彼が触れ込む)人物の話を展開してくれた。

彼らは、別段、「方法論を教える」という職務から逸脱しているわけではない。普段は至って普通に授業を展開してくれるし、問題演習も解説もしてくれる。然し、こうした一言に対して私は無性に温かみを感じてしまうのである。
彼らは「学問を学ぶ」という建前を忠実に守ってくれている。それはまるで、ゴミを拾うディズニーのキャストに「何を拾っているんですか?」と聞けば「夢の欠片」だとか「チップとデールの食べ残し」を拾っていると返してくれるようなものである。そのお陰で、我々はまるで学問を学ぶかのように、方法論を会得しているのだ(当の私はしていないということが、上の告白で明かされてしまったが……)。

だが、残念ながら、この方法には限界がある。何故なら、大学受験で頻出の問題は必ず存在するし、大学受験で登場しない問題も確かに数多あるからである。学問上必要でも、問い方などによって已む無く不要の烙印を押される単語や法則は後を絶たない。

私は結局、どうしても、残念ながら、「『学校は方法論を教わる場所である』という前提が共有されることこそ必要だ」という結論に至ってしまう。それは、我々とディズニーのキャストで「宇宙船を模したジェットコースターに乗っている」という前提を共有することであり、我々がそこで宇宙旅行と同時にジェットコースターを楽しむということである。

学校がつまらないのは、誰のせいでもない。学校に行く意味を見失うのは、至極当然のことである。何故なら、それは隠されていて誰も説明してくれないからである。私が三年間高校に通って出した結論は、これである。

大学入試共通テストの発明は、正義か不義か

第四十一条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。
第四十二条 高等学校における教育については、前条の目的を実現するために、左の各号に掲げる目標の達成に努めなければならないい。
 一 中学校における教育の成果をさらに発展拡充させて、国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと。
 二 社会において果さなければならない使命の自覚に基き、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させること。
 三 社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること。
(引用:『学校教育法(昭和二十二年三月二十九日法律第二十六号)』第四章 高等学校/文部科学省/※誤字は原文ママ引用)

日本の学校教育法に明記された上の三項目こそが最終的な高校設立の目的である。文部科学省に言わせれば、この目標を達成することが、高校生が高校に行くべき理由なのである。そういう点で、私は、このままではまずいと思う。現在の高校に行っても、上のような成長を感じることは難しい。

現在の学校に行く目的を「学校は方法論を教わる場所である」という枠組みの存在に固定した上で、学校教育法の三項目を検討していこう。

「一 中学校における教育の成果をさらに発展拡充させて、国家及び社会の有為な形成者として必要な資質を養うこと」
抽象的であるが、部活動や学校行事、生徒会活動や休み時間を通して形成された小社会に於いて、生徒が一人の個人として振舞うことにより、「国家及び社会の有為な形成者として必要な資質」を得るというシナリオが考えられる。
だが、そもそも、文部科学省ひいては日本が考える「国家及び社会の有為な形成者として必要な資質」というのが何かという疑問は残るのだが……。

「二 社会において果さなければならない使命の自覚に基き、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させること」
「一般的な教養を高め、専門的な技能に習熟させること」を考えると、(少なくとも高等)学校は、「学校は学問を学ぶ場所である」という建前を本音として飲み込むことを考えられなくはない。
然し、これに関して言えば、現在の「定期試験」「成績表」「大学入試」の三点がその達成を阻んでいる側面が大きいと思う。
問題集を解き、「社会的な繋がり」や「摂理的な関係」としてではなく「問いと解答」として集約される知識は、無味乾燥なものであると私は思う。純粋に学問を楽しみ、考察することに歓びを見出し、知識の拡充にワクワクするような学習スタイルは、全くと言って良いほど許容されていない。それは、定期試験という「英語学習」ではなく「授業で履修した範囲の本文」を覚えることで高得点が期待できるシステムによってである。或いは、大学受験という、多くの人間が通る道が、それを必要としているからである。

例えば、”Let's go!"という表現を考える。「出発だ!」とか「行こう!」みたいに訳されることが多いだろうが、分解してみればそれは"Let us go!"であり、「私達に行くことを促そう!」ということになる。そう、"Let's go!"という表現は、英語文法上至極全うな表現であって、特別な熟語でなければ慣用句でもないのである。これが理解できれば"Please let me know!"(私が知ることを促してください/「私に知らせて!」)だとか"Let It Go"(それが行くことを促す/「自由にする」/ありのまま)という表現にも、妥当性が見えてくる。
だが、我々は往々にして「"Let's go!"=行こう!」だと思ってしまう。こうした例は枚挙に暇がない。

近年話題になることが多い「敷居が高い」という単語。これは世間一般には「高級そうで行き辛い」という意味をもち、「あのレストランは敷居が高い」などと用いられる。だが、実際は「相手に申し訳なくて行き辛い」という意味がある。
多くの場合では「敷居が高い=高級で行き辛い、は間違っている」とされることが多いが、私はそうとも限らないと思う。
つまり、「私のような身分・収入の人間が」「あの高級レストランに行くには」「あの高級レストランに申し訳ない」ので「あのレストランは敷居が高い」のではないだろうか、というわけである。こうした関係性は、思考停止して暗記を強要する現在の学校教育では発生し辛い発想であると思う。文法を理解し、単語を分解することで得られるものであるからである。

ところが、現代文用の単語は「現代文に登場する単語」として学習し、英単語は「英文に登場する単語」としてA=Bで理解することが多いように思う。分断された知識を闇雲に暗記することが、果たして全体理解に繫がるのだろうか。

余談になるが、私は当初「大学入試共通テスト」はその是正を目的としているのだと思っていた。実際に、テストのウェブページにはそう書いてある。

1.大学教育の基礎力となる知識・技能や思考力、判断力、表現力等を問う問題作成
平成 2 1 年告示高等学校学習指導要領において育成することを目指す資質・能力を踏まえ、知識の理解の質を問う問題や、思考力、判断力、表現力等を発揮して解くことが求められる問題を重視した問題作成を行います。
(引用:『大学入学共通テストの役割』大学入学共通テストの果たす役割/独立行政法人 大学入試センター)

ところが、大学入試共通テストを実際に受験した私からすれば、肌感として、必ずしもそうではなかったという感想を抱かざるを得なかった。特に社会科などは、単なるリード文を無理矢理会話形式にしたものが多い印象である。「体系化した知識」ではなく、「知識の体系化」を要求するテストのようだ。
共通テストが従来の高等教育の改革を促し、未来を見据えた教育を目標にする上で、上記のようにウェブページでは「知識と知識を結びつける思考力」について触れていない。寧ろ、上に指摘したような「知識の中に疑問を見つけ、そこにフォーカスして問題を解決する思考力」が必要とされているのである。これは言い換えれば、体系化された知識である歴史学、科学、物理学などの「学」に問いを投げかける「学問」であり、同時に、社会の問題点を再発見していく能力である。

「三 社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、個性の確立に努めること」
現在の教育制度は、個性よりも寧ろ全体性を育むものになっていると言わざるを得ないと思う。
本文では具体的な考察は省略するが、そもそも、成績表や部活動レベルで確立できる個性というのは非常に限られている。例えば、プログラミングやゲームの技術、独創性、唯一性は、学校の成績表に全く含まれていないだろう(至極当然のことであるが)。

本文の主題は「学校に行く理由」だから、これに、学校に行かないことによって対抗しようという考え方を検証したい。然し、結論から言えば、私はこれに明確に反対したい。

勿論、特別な事情があるならばこの限りではないと思う。だが、学校で全体主義に染まりながら、他方で個性を発揮することは不可能ではない。事実、私は学校へのささやかな抵抗として、この文章を書いている。
学校の授業それ自体がインターネットで代替可能であるならば、個性の発揮もまた、インターネットの専売特許である。世界の何処からでも参加できるゲームに、我々(繰り返すが、高校生のインターネット利用率は99%だ!)はいつでも挑めるのだ。

このように三項目から考えると、現在の学校が(ある側面から見れば、だが)法律で定める理念を体現しているとは言い難い。

「学校に行く理由は何か?」

授業は受ける必要がなく、学校の役割も体現していない。では、やはり、学校に行く必要はないのだろうか?

否、そういう問題ではない。「それでも学校に行く」理由には、それ以上のものがある。

上に挙げた二つの本音と建前――「授業で知識を得る」ことと「授業で方法論を学ぶ」ことに関して言えば、確かに、学校に行く必要はないかもしれない。代替はいくらでも利くだろう。
だが、「行かない必要」もない。小腸に繊毛が生えていて、肺には肺胞が入り組んでいるように、人間は可能な限りチャンスを最大化することが出来る。思わぬ知識や関心との出会いの発生率を上げるのに、学校という場所はうってつけなのである。

そして、そうした消極的理由以上に、積極的に「学校に行くべき」理由。それは、どれだけ割り切っても代替の利かない「物語」のためである。

先日、私はこのようにツイートした。

私は学校に、魅力的な物語を見つけることができなかった。それは、最終的に大学入試を目標としていて、無味乾燥で、暗号のように単語を覚える必要の或る授業に嫌気が差し、その一方で、東京ディズニーリゾートや海外の映画を通じて言語、文化、科学、歴史を学ぶ際には、極彩色の学ぶ幸せとスリルに溢れた体験ができたからだ。そうした状況にあって私はこのようなツイートをする羽目になったのだ。
然し考えてみれば、このツイートの逆転もはっきりと起こり得ることであることは明らかだ。当の私も一部には、上記した通り、素晴らしい先生による素晴らしい解説を聞き、共に考え、楽しむことができた。それは何よりも貴重な学校での経験であったと私は思う。
「学校の先生は、この知識をどういう風に解説してくれるのだろう」――それが、知識との出会いの物語である。「この人は、一体何を考えているのだろう」――かけがえのない人間との出会いの物語も存在している。

世の中の多くの人間は、映画の「ネタバレ」を嫌う。だが、考えてみて欲しい。映画を最後まで観れば結局分かってしまう情報を、何故人は避けるのだろうか。それは、映画というひとつの物語の上に位置付けられた結末だからこそ、価値を感じているからである。まるでコピー&ペーストされた活字のように、友人とのくだらない雑談の中に埋れて欲しいとは全く思っていないからである。そして、物事を「知る」経験は一生に一度しか訪れない不可逆的で貴重な機会であり、それ以降に繰り返されるのは「思い出す」経験でしかないということである。それは学問や知識も同じなのだということは、共感されることの少ない事実であると私は思う。

インターネットで出会う人間と、学校で出会う人間には、全く別の種族が含まれる。だが、インターネット上の人間も現実世界を生きているし、クラスの同級生も担任の先生も、SNSアカウントのひとつやふたつは持っている。現代社会を構成する人間として、大本は一切同じである。三位一体といった論理は、日常にも根差している。同じ人に出会うにも、どこで出会うかによってキャラクターは反転する。学生時代の思い出として思い返される知識と、ウェブページで無味乾燥に知ったデータには、刻まれる記憶のデザインに全く別の文脈を感じる。我々は、学校に、そうした唯一無二の物語のために行くのである。

私は「映画」が好きである。それ以上に、「映画体験」が好きである。

学校が嫌いな読者諸君、或いは、学校が嫌いだった読者諸君は、是非とも今後、一度でもこう考えてみて欲しい。

私は「学校」こそ嫌いである。だが、「学校体験」は嫌いになれない、と。

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