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マキアヴェリズムと東京ディズニーシー

東京ディズニーシーに併設されているパーク一体型ホテル「東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ」は、主に三つのエリアに面している。
ひとつが、パラダイスの港「ポルト・パラディーゾ」だ。東京ディズニーシーの中心に鎮座するプロメテウス火山や、水上ショーも行われる巨大な港が一望でき、夜には家路につくゲストたちを見送ることもできる。
次に、宮殿の運河「パラッツォ・カナル」。イタリアの水上都市・ヴェネツィアをモデルとし、ゴンドラが行き交う様子を見ることができる。
そして最後が、東京ディズニーシーのエントランス方面だ。

さて、ホテルミラコスタの部屋は、どのエリアに面しているかによって三種類に分かれている。プロメテウス火山に面した「ポルト・パラディーゾ・サイド」、パラッツォ・カナルに面した「ヴェネツィア・サイド」、そしてエントランスに面した「トスカーナ・サイド」だ。
東京ディズニーシーのエントランスは、トスカーナの建築をモデルにしていると言われている。遠くから見られるホテルミラコスタの象徴的なドーム屋根は、トスカーナ州フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を彷彿とさせるだろう。

そんなフィレンツェ出身の政治家がマキアヴェリである。彼の提唱したフレームワークは「マキアヴェリズム」と呼ばれ、しばしば話題に上る。
というのも、マキアヴェリズムの本分は「目的達成のために手段を選ばない権謀術数主義」などと評されることが多く、一見すると残虐非道なのだ。

今回は、彼の著書『君主論』に即したマキアヴェリズムの思想と、世界のディズニーリゾートの行く末について考えて見たいと思う。

*一介のディズニーファンによるお楽しみ文章としてお読みください

マキアヴェリズム=ポケットモンスター

❶イタリアの思想家、マキアベリが『君主論』の中で述べた思想。君主の統治技術を論じ、国家の利益のためならいかなる反道徳的行為も容認されると主張する。
❷目的のためには手段を選ばないやり方。権謀術数主義。
(明鏡国語辞典 第二版「マキアベリズム」)

さて、そもそも、本当にマキアヴェリズムは冷酷な思想だと言えるのだろうか? この点に関しては多数の議論があるが、私個人としては次の点を指摘したい。

明鏡国語辞典にある「国家の利益のためならいかなる反道徳的行為も容認される」とは、以下のような例を指していると思われる。

ほかに、最良の策の、もう一つをあげれば、領土の足枷(拠点)ともなる一、二の箇所に、移民兵を派遣することである。(中略)。もっとも移民兵が新たに住みつくことで、彼らのために、田畑や家を取りあげられて傷つく人が出はするが、なにぶんにも全領民から見ればほんのひと握りでしかない。しかも傷つけられた連中は、ちりぢりになり貧困におちいるから、君主に危害を加えるようなことはまずありえない。(中略)。
これにつけても覚えておきたいのは、民衆というものは頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならない。というのは、人はささいな侮辱には仕返ししようとするが、大いなる侮辱にたいしては報復しえないのである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないようにやらなければならない。
(マキアヴェリ/池田廉(訳)『君主論』第3章)

確かに、こうした文面から垣間見える冷酷さは、恐るべきものがある。しかし、同じ第3章において彼はこうも書いている。

領土欲というのは、きわめて自然な、あたりまえの欲望である。したがって、能力ある者が領土を欲しがれば、ほめられることはあっても、そしられはしない。しかし、能力のない者が、どんな犠牲もいとわずに手に入れようとあがくのは、間違いであり非難に値いする。
(マキアヴェリ/池田廉(訳)『君主論』第3章)

確かにマキアヴェリズムは冷酷であって、それは、マキアヴェリズム全体に通底する現実主義による。しかし、ここで重要になのは「国家の利益のため」という部分であって、この部分を「君主の利益のため」と誤読してはならない。国益のためには、君主の欲や野望すらも制限される可能性がある、というのが本旨である。

これは、ある意味でポケットモンスターの考え方に近い。ポケットモンスターのゲームで、ポケモントレーナーの持っているポケモンは、1から100までレベルが割り振られている。ポケモンバトルで経験値を獲得するとレベルが上がり、攻撃力や体力の数値が高くなってより強く育っていく。
プレイヤーは、冒険の途中でポケモンジムを訪れ、ジムリーダーとポケモンバトルをすることでジムバッジを手に入れるが、持っているバッジの個数によっては、ポケモンが言うことを聞いてくれない。例えば最新作の「ポケットモンスター ソード/シールド」において、バッジを一つも持っていない初期の状態では、レベル20以上のポケモンは、こちらの技の指示を聞いてくれない。一つ目のジムバッジでレベル25まで、二つ目でレベル40まで……と続き、すべてのジムバッジを手に入れるとレベル100までのすべてのポケモンが言うことを聞いてくれる。

【ポケモン剣盾】ジム一覧&いうことをきくレベル

『君主論』では、前半部分で国家を支配の方法によって複数に分類している。第1章で述べることには、世界の国は全てが「共和国か、君主国かのいずれかで」あり、この君主国は「世襲君主国と、新たにできた君主国がある」。更に、新たにできた君主国は「全面的に新しい国」と「征服した君主が、もとの世襲の自国に新たに手足を付け足して併合したような」国に分かれる。
そして、第2章以降では話題は君主国に絞られ、それぞれの国の支配の仕方や歴史を説明していく。
それぞれの形式の君主国は、民衆を納めるのに必要な器量や戦略が異なっているから、君主は自分がその国を獲得したとして満足に治めることができるかよく考えねばならないのだ。

さて、マキアヴェリズムの根本的な規範として「身の丈にあった政策を」という教訓を仮定する。この主張は、本文中盤から終盤にかけて抽象化されていくのだが、その過程を楽しむことでマキアヴェリズムはより更なる深みへと到達する。

マキアヴェリ「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」

『君主論』の前半部分では、君主国を複数のパターンに分けて分析し、それぞれの特徴を書き連ねている。そして、中盤では軍隊、終盤では君主の在り方についていよいよ踏み込んでいく。

先ず、中盤、マキアヴェリは軍の重要性を説いた上で、自国軍を用いるよう強く勧めた。

君主が国を守る戦力には、自国軍、傭兵軍、外国支援軍、混成軍とがある。傭兵軍および外国支援軍は役に立たず、危険である。(中略)。
(さらに中略)。わたしは、この種の軍隊の不適格性をいっそう明確にしておきたい。傭兵隊長には、〔軍務に〕熟達した人物と、そうでない人がいる。かりに逸材であれば、信頼するわけにはいかない。なぜなら、彼らは、雇い主のあなたを圧迫したり、あなたの意志に背いて、別の勢力まで制圧してしまったり、きまって身の栄達を望むのである。かといって実力のない人間であれば、むろんあなたは破滅に追いやられる。
(マキアヴェリ/池田廉(訳)『君主論』第12章)
もう一つの役に立たない戦力として、外国からの支援軍がある。(中略)。だが、この種の軍隊はそれ自体は役に立ち、悪くはないのだが、おおかた招いた側に禍を与える。なぜなら、支援軍が負けると、あなたは滅びるわけで、勝てば勝ったで、あなたは彼らの虜になってしまうからだ。
(マキアヴェリ/池田廉(訳)『君主論』第13章)
したがって、賢明な君主は、つねにこうした武力を避けて、自国の軍隊に基礎をおく。そして、他国の兵力をかりて手にした勝利など本物ではないと考えて、第三者の力で勝つぐらいなら、独力で負けることをねがった。
(マキアヴェリ/池田廉(訳)『君主論』第13章)

さらに、第15章以降では、君主の持つべき資質や立ち振る舞いについても書いている。

要するに君主は、前述のよい気質を何から何まで現実にそなえている必要はない。しかし、そなえているように見せることが大切である。いや、大胆にこう言ってしまおう。こうしたりっぱな気質をそなえていて、後生大事に守っていくというのは有害だ。
(マキアヴェリ/池田廉(訳)『君主論』第18章)

こうした中盤・後半の論調から見出せるのは、「コントロール可能な範囲を維持せよ」ということである。福沢諭吉は「自由在不自由中」不自由の中に自由在りと残しているし、TOKIOは「宙船」という曲の中で「おまえが消えて喜ぶ者におまえのオールを任せるな」と歌っているし、冨岡義勇は『鬼滅の刃』で「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」と放つ。

ウォルト・ディズニーとマキアヴェリズム

さて、ここからは、ウォルト・ディズニーがディズニーランドに求めた条件から、マキアヴェリズムの思想をより深めていこうと思う。そして、その重要な鍵となる表現として、能登路雅子氏が1955年にオープンしたカリフォルニアのディズニーランドを言い表した言葉がある。

映画というメディアでは、製作者は自分が伝えたい物語や雰囲気というものを観客の視覚と聴覚を通じてしか訴えることができない。が、ディズニーはディズニーランドという現実の空間のなかで、匂いや食べ物まで自由自在に演出することができた。つまり、彼は嗅覚、触覚、味覚を加えた人間の五感のすべてをコントロールする強力な媒体を手に入れたのであった。
(能登路雅子『ディズニーランドという聖地』)

ウォルト・ディズニーは世界初の長編カラーアニメーション『白雪姫』を1937年に発表し、その後実写映像を作品に取り入れ、『シンデレラ』公開と同年の1950年に彼にとっては初の全編実写映画『宝島』に挑戦した。そして、その延長にディズニーランドはある。

彼のこうした「環境管理」にかける意欲というのは、現在でも随所に見ることができる。それは「ディズニーランドから外の世界は見えない」という有名な話にも表れているだろう。
また、アトラクションに登場する電子制御のキャラクター「オーディオ・アニマトロニクス」もそれであると言える。これは、ゲストの目の前で演技をする躍動感と、演技の安定性を両者とも担保したいというウォルトの悲願である。1955年のオープンからリニューアルを繰り返している「ジャングル・クルーズ」では、動物をロボットにすることを決定しており、開発前からそのアイディアの片鱗は見られた。パーク内に初めて登場したのは1963年の「魅惑のチキルーム」であるが、1964年のニューヨーク万国博覧会のために本格的に研究され、「リンカーン大統領と共に」でアメリカ合衆国大統領のエイブラハム・リンカーンを再現した。この技術が、ウォルトの遺作とも言われる「カリブの海賊」や、ウォルト死後に完成した「ホーンテッドマンション」にも使用されている。

しかし、ここでひとつ問題が生じる。ディズニーランドが彼の苗字を冠していて、彼が元来映画クリエイターであったことからもわかる通り、彼がディズニーランドに求めた「環境管理」とは「フィクション世界を三次元世界に起こす」ことに他ならなかった。
つまり、ディズニーランドのいかなるものも結局はフィクションやレプリカに帰するのである。言い換えれば、「ディズニーランドは嘘だ!」とか、「ミッキーマウスなんていない!」と一蹴することで、彼の「環境管理」は意味をなさなくなってしまうのである

そこで登場するのが、ディズニー・キャストである。

人々の心に夢を呼ぶストーリーをショーに演出し、パーク全体をステージとして、ゲストとキャストが一緒に参加し、体験する。これがディズニー・テーマパークの魅力の核となっています。
また、従業員がキャスト=出演者と呼ばれる理由もここにあり、ゲストの参加(共演)によってそれぞれのテーマランドのショーも日々新しく生まれていくのです。
『東京ディズニーランド | 施設概要 | 東京ディズニーリゾートについて | 株式会社オリエンタルランド』より)

従業員を出演者と呼び、物語に積極的に参加させることで、ディズニーランドの物語はフィクション性を持ちながら、リアルタイムなものとして展開されていく。

例えば、東京ディズニーランドの「スター・ツアーズ:ザ・アドベンチャーズ・コンティニュー」は、スター・ツアーズという会社の宇宙フライト便に乗車するという物語である。そのため、乗り物に到着するまでの間、ゲストはドロイドの会話する様子を盗み聞きしたり、荷物チェックや身体検査を受けたりする。この部分は、メインの乗り物での体験を盛り上げるための、前提条件の積み重ねになっている。続いて、乗り物は「キャビン」と呼ばれ、手荷物の扱いについては「銀河運航法により、手荷物は座席の下のネットに入れるよう定められています」とアナウンスされるなど、身の回りのものは物語と結び付けられて説明される。
しかし、これだけでは事足りない。「銀河運航法なんてあるものか!」と言われればそれでお終いなので、従業員=キャストが、フライト・アテンダントの役を演じる。”Welcome aboard!"「ご乗船ありがとうございます!」と言って乗り物内に入り、シートベルトの安全確認をした後、“Have a great flight!"「素晴らしいフライトを!」と言って去っていく。

ここでは、我々はスター・ツアーズ社のお客様として振る舞うことを余儀なくされるだろう。これこそが、ディズニー・キャストがキャスト=演者と呼ばれる所以である。客と対等な人間であり対話可能な存在である従業員が、キャストとして役を演じることにより、客はゲストとしてストレスなく物語に入ることができるのだ。否、それ以上に、物語に入っていくことを半ば強制されているとさえ言える。

他にも、東京ディズニーランドの「モンスターズ・インク“ライド&ゴーシーク!”」では、夜のモンスター・シティが舞台ということで、昼でも「こんばんは!」という挨拶を用いる。東京ディズニーシーではこれがさらに顕著で、南ヨーロッパが舞台ならイタリア語で「チャオ!」、中央アメリカが舞台ならスペイン語で「ブエノスタルデス!」と挨拶してもらえる。「タワー・オブ・テラー」では、キャストがニューヨーク市保存協会の会員に扮して「みなさんこんにちは、ニューヨーク市保存協会が主催するタワー・オブ・テラーのツアーにようこそ。ここ、ホテル・ハイタワーにある貴重なコレクションは……」と学芸員のような立ち回りをする。

ウォルトは、キャストを用いてディズニーの魔法を現実のものとした。「したがって、賢明な君主は、つねにこうした武力を避けて、自国の軍隊に基礎をおく」のである。

さて、昔からの君主国とか混成型の君主国と共に、新君主国を含めて、すべて国の重要な基盤となるのは、よい法律としっかりした武力である。しっかりした軍隊をもたないところ、よい法律が生まれようがなく、しっかりした軍隊があってはじめて、よい法律がありうる。
(マキアヴェリ/池田廉(訳)『君主論』第12章)

ここで、自国軍とはディズニーキャストのことであるし、法とはウォルト・ディズニーの想像した物語や世界観であると言えるだろう。

ウォルト・ディズニー、国を作る

さて、ディズニーランドはそうした「環境管理」の点でひとつの不満を抱えていた。パーク周辺に様々な施設が林立し、宿泊施設は利用料を釣り上げたのだ。ウォルト・ディズニーの死後オープンすることになるウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートは、山手線の内側面積のおよそ1.5から2倍と言われている。それどころか、彼は本気で「国」を創ろうとしていたのではないかと思わされる。ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートには、ディズニーランドの代わりにマジック・キングダムが設置された。

フロリダの原野に魔法の人口都市が誕生する前、ディズニー社は州政府から電力、ガス、上下水道、消防、建築基準、道路建設など、本来であれば公共の事業であるものを独自に運営するという異例の特権を手に入れた。警察権、司法権については、地元オレンジ郡の管轄下に置かれているが、ウォルト・ディズニー・ワールドはそれ以外の諸権利に関しては「主権」を有しているのである。
(能登路雅子『ディズニーランドという聖地』)

そして、実は、彼がディズニーランドの次に計画していたものはExperimental Prototype Community of Tomorrow「実験的未来都市」であった。通称EPCOTと呼ばれるこれは最早フィクションの世界から飛び出していて、実際に都市を建設しようというアイディアだったと言われている。しかし、当初の予定通りとはいかず、ウォルトの死後にテーマパークという形で完成した。

マキアヴェリと東京ディズニーランド

1983年、東京ディズニーランドが日本にオープンする。
京成電鉄の京成グループが設立した株式会社オリエンタルランドは、千葉県浦安市の埋立地にレジャー施設を誘致することを発端に設立された。そのレジャー施設のひとつの候補に、ディズニーランドがあったのだ。
ディズニーランド誘致を受けたディズニーは、当時1970年代。ウォルト・ディズニーが1966年の冬になくなったばかりで、アニメーションの業績も振るわない時期だった。海外にディズニーパークを作っても売れるかわからない、そんなときに日本の株式会社オリエンタルランドから連絡が舞い込んだ。長年拒んだディズニーは、無理難題のライセンス契約を提示して引き下がってもらおうとしたが、なんとオリエンタルランドはそれを了承してしまったのである。
その結果、日本の東京ディズニーランドは大成功した。現在でも、東京ディズニーリゾートは世界で唯一、ディズニーが所有・運営していないディズニーリゾートである。そして、このことは東京ディズニーランドを「日本オリジナルのディズニーランド」へと向かわせるわけだが、当初はそうではなかった。

東京ディズニーランドの立ち上げを回想して、現在はオリエンタルランド会長を務める加賀見俊夫氏はこう書いている。

プロジェクトが具体化するにつれて、ある時期を越えると急速に仕事が増え、中途採用などで社員がどんどん入社してきた。その際に心掛けていたのは、レジャー施設で働いていた経験者は採用しないということである。これには理由がある。東京ディズニーランドはディズニー社のノウハウを全面的に導入して行われるプロジェクトであり、彼らのやり方をそのまま吸収することが大事だったからだ。(中略)それまで日本にあったのはあくまで遊園地であり、テーマパークではない。われわれは日本初のテーマパークを創ろうとしているのだから、まっさらの人材が欲しかったのだ。
(加賀見俊夫『海を超える想像力 東京ディズニーリゾート誕生の物語』)

東京ディズニーランドは、アメリカ合衆国のディズニーランドとマジック・キングダムの完全なコピーであった。そして、完全なコピーを作るため、ウォルト・ディズニーの発想は日本人に丁寧にインストールされていった。

実際に東京ディズニーリゾートには、ディズニーパークが持つウォルト由来のホスピタリティを、時間をかけて従業員全体に染み込ませていく工程がある。

テーマパークの発展には「キャストの成長」が欠かせません。
キャストの目指すゴール「We Create Happiness」に基づき、ディズニーフィロソフィー(哲学)やキャストとしての行動規準について学ぶ導入研修教育プログラムを全キャスト対象に実施しています。このほか、配属後には、OJT(実地トレーニング)を含む部門ごとのトレーニングを実施しています。
さらに、業務内容や習熟度合いに応じた5段階のステップアップ制度や、トレーナーとして後輩を育成する役割を担う制度、ディズニー教育プログラムがあります。
『人財教育・支援体系 | 従業員とのかかわり | CSR情報 | 株式会社オリエンタルランド』より)

さて、東京ディズニーランドが本家本元のディズニーランドを忠実に再現したモデルとなったことが原因で、日本においてはディズニー・キャストの存在がより重要なものとなっていると言えるだろう。

カリフォルニアに最初のディズニーランドをオープンするため、資金集めに奔走していたウォルトは、『ディズニーランド』というテレビ番組を受け持っていた。ここでは、コンセプトアートや模型を使って、ディズニーランド完成までの過程を放送したり、その内容をウォルト自らが説明したりしていた。
そして、パークのそれぞれの施設は、ウォルトの個人的な思い出をテーマにしていながら、アメリカ合衆国の建国神話を肩代わりしていたのだ。ウォルトが幼少期を過ごしたマーセリンはメインストリートUSAとなり、西武開拓時代のアメリカがフロンティアランドに再現され、アメリカ合衆国の未来はトゥモローランドへと託されている。そして、ウォルトの名すらもアメリカの歴史の中に組み込まれつつあった。ディズニーランドはファンタジーではなく、ドキュメンタリーなのである。

一方で、東京ディズニーランドはそうした文脈を梯子外ししていると言えるだろう。先ほど紹介し、日本では1958年から放送された『ディズニーランド』は、正にその代表格である。

当時の日本人が、結果として『ディズニーランド』から読み取ったメッセージ、それは「経済性・技術力ともに絶対に到達不可能のアメリカという国」と「アメリカの豊かな消費生活」にほかならなかっただろう。これを見ている日本人の大半は四畳半、裸電球一個の電灯、ちゃぶ台の上に一汁一菜といった食事だったのだから。
(新井克弥『ディズニーランドの社会学 脱ディズニー化するTDR』)

ディズニーランドがオープンする1950年代、戦前・戦時中に製作されたディズニー映画が次々と流れ込んでくる中で、日本人はアメリカ合衆国という国の凄みを見せつけられ、憧れるようになっていく。結果として、東京ディズニーランドのオープンする1980年代の映画『ブレードランナー』が未来のサンフランシスコに和風のテイストを取り入れたように、日本の高度経済成長はアメリカ合衆国をも追い越さんとする勢いを見せる。
そうした日本人にとって、東京ディズニーランドとは正に悲願なのである。そういうわけで、東京ディズニーランドは、アメリカ人がそう思うのと全く別の文脈に「夢の国」として認識されるのではなかろうか。
東京ディズニーランドは、文字通りのファンタジーである。自国の文化としてではなく、憧れの対象として認識される「夢の国」を維持するために必要なのが、他でもないディズニー・キャストの存在なのである。

マキアヴェリと東京ディズニーシー

さて、昔からの君主国とか混成型の君主国と共に、新君主国を含めて、すべて国の重要な基盤となるのは、よい法律としっかりした武力である。しっかりした軍隊をもたないところ、よい法律が生まれようがなく、しっかりした軍隊があってはじめて、よい法律がありうる。
(マキアヴェリ/池田廉(訳)『君主論』第12章)

マキアヴェリは法律と軍隊を論じ、『君主論』ではそのうち後者の軍隊に重きを置いた。
ディズニーパークにおいて法律とは、フィクショナルな物語部分であると見なすことができる。ディズニーランドではウォルト・ディズニーの発想した世界を現実のものとするために、東京ディズニーランドではアメリカ文化への憧れに日本人を没頭させるために、ディズニー・キャスト=自国軍の存在は欠かせないものであった。
では、東京ディズニーシーのディズニー・キャストは、ゲストをどのような世界に「従わせる」ことになっているのだろうか。

ここで、話は冒頭に戻る。フィレンツェ出身のマキアヴェリと、エントランスにフィレンツェを再現した東京ディズニーシーの間には、どこか縁を感じるものだ。その理由をずばり、考えていきたいと思う。

さて、プロメテウス火山のふもとには、探検家・冒険家学会のホームであるフォートレス・エクスプロレーションがそびえたっている。ここでは、フェルディナンド・マゼランやクリストファー・コロンブスが名誉会員として名を連ね、賞賛を浴びている。
一方では英雄とされる彼らだが、他方で、先住民の生活を脅かしたり侵略行為をしたりしたという残虐性が指摘されることもある。その汚名を払拭するのがレオナルド・ダ・ヴィンチの存在である。
というのも、メディテレーニアンハーバーにおいてレオナルド・ダ・ヴィンチが登場するのは、画家ではなく科学者としてなのだ。彼の有名な絵画『モナ・リザ』は、パラッツォ・カナルの一角にその模写が展示されているだけであり、S.E.A.名誉会員としての彼は、あくまでフライングマシーンを発想し、社会を自然と科学の立場に立って見通した人物として描かれている(無論、これは『モナ・リザ』が自然と科学に矛盾するという逆説的な意味があるわけではない)。
そう考えれば、マゼランもコロンブスも、買われたのは海を渡る際に信じた科学とそれを信じた心であって、その目的地での惨禍に関してはまた別の法廷が設けられるのかもしれない。

さて、彼らの過ごした大航海時代とルネサンスは、イスラーム文化なくしては生まれなかっただろう。アラビアンコーストは、大航海時代の前史として、ムスリム商人の市場やダウ船が再現されている。
マゼランやコロンブスと共に、コンキスタドールとしてピサロやコルテスが支配したのが、中南米地域である。ロストリバーデルタが、マヤ文明とインカ帝国をはじめとしたさまざまな文明の影響を受けていることも理解できる。
コロンブスが発見した新大陸に、後にアメリゴ・ヴェスプッチの名から「アメリカ」と名前がついた。アメリカンウォーターフロントは、アメリカ人の独立と建国神話を尊重している。
しかし、そうした彼らを断罪する人間として、天才科学者ネモ船長がいる。ミステリアスアイランドは、科学の視座に立って自然を研究しているが、一方で世俗の争いとは距離を置きたがっている。
そして、科学の視座に立ち自然を研究するという営みを、ポートディスカバリーは顕著に表している。「ストームを消滅させます」とか、「海は地球最後のフロンティア」とか、彼らはマニフェスト・デスティニーをなぞりながら、無害化された明白の天命を全うしようとしている。
このように、時代を超えて、多くの人が船に乗ってきた。そんな彼らが持つ海の憧れは、映画『リトル・マーメイド』でアリエルに託された。いつの日か陸の世界へと行きたいと願う彼女と鏡写しになる形で、我々はマーメイドラグーンを追体験するのだ。

東京ディズニーシーは、夢と魔法が支配的な東京ディズニーランドと対照的である。というのも、ファンタジーの世界として体裁を保ちながら、科学と産業をフィーチャーしていると言えるからだ。

そして、科学と産業が支配的な世界観を舞台として、東京ディズニーシーは東京ディズニーランドへの「縁戻し」を用意している。

「タワー・オブ・テラー」では、アフリカの秘境で手に入れた偶像シリキ・ウトゥンドゥにまつわる「呪い」を信じるか否かで運命が変わる。ハリソン・ハイタワー三世は、その「呪い」を信じずに失踪する。
「インディ・ジョーンズ®︎・アドベンチャー:クリスタルスカルの魔宮」でも、「水晶髑髏の神殿に近付いてはならない」と言うインディアナ・ジョーンズ博士をイギリスの学者たちが「ハリウッド映画の見過ぎである」と一蹴する。
「センター・オブ・ジ・アース」でも、ネモ船長は巨大生物の卵の欠片を発見する。しかし、このような生物はあり得ないと考えながらもその存在を想像してしまう自身の想像力に葛藤している。
「マジックランプシアター」に登場するマジシャンのシャバーンは、自分を偉大にしてくれたランプの魔神ジーニーに鍵をかけてしまってしまう。

彼らの多く(時にはゲスト自身)は科学や数字の世界に生きており、同時に魔法や人智を超えた力を信じようとはしない。そして、それらの力に平伏し、重大な事故を引き起こすことになってしまう。

領土欲というのは、きわめて自然な、あたりまえの欲望である。したがって、能力ある者が領土を欲しがれば、ほめられることはあっても、そしられはしない。しかし、能力のない者が、どんな犠牲もいとわずに手に入れようとあがくのは、間違いであり非難に値いする。
(マキアヴェリ/池田廉(訳)『君主論』第3章)

つまり、東京ディズニーシーのマキアヴェリズムは、完全に鏡映しの構造をしているのである。
「妥当で論理的、身の丈にあった政策を」と唱えたマキアヴェリは、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じルネサンスの世界を生きた人間であった。彼は、宗教の時代において素直な観察眼を発揮し、この書を書き上げた。そのことは現代において、反対の意味をもちえる。
科学の時代にあるからこそ、ファンタジーが物を言う。東京ディズニーシーの掲げる「冒険」とは、マキアヴェリが否定した「能力のない者が、どんな犠牲もいとわずに手に入れようとあがく」ことであって、「イマジネーション」とはそのデスティネーションを設定することであると言える。このことは東京ディズニーシーにおいて色々な形で現れており、「科学者と自然」、「移民とアメリカ」、「人間と人魚の国」、「コンキスタドールと未知の大陸」など枚挙に暇がない。

マキアヴェリと東京ディズニーシーが親和しているのは、東京ディズニーシーが彼の思想の本当に根本的な部分を称賛しているからではないだろうか。そしてその内容は、ディズニーの物語として、あるいはディズニーパークの物語として、あまりにも洗練されていると言えないだろうか。

マキアヴェリはみんなのものだよ!

東京ディズニーランドでは、ウォルト・ディズニーの思想を体現するためにディズニー・キャストが動員され、アニメーション世界=法を率先して遵守させることで「環境管理」を行なった。更に東京ディズニーシーでは、「科学者と自然」「移民とアメリカ」「コンキスタドールと未知の大陸」など、「環境管理」に挑む人々の立場を追体験させた。

では、現在の東京ディズニーリゾートにおいて生じていることはどうだろう。

2021年8月、アメリカ合衆国の両ディズニーリゾートにおいて、Disney Genieという新たなウェブサービスが発表された。
これは、レストランの予約や「ディズニー・ファストパス」と呼ばれていた待ち時間の短縮チケットなどを統合し、そこにプランニングの機能を追加したものだ。サービス全体は、自分の好みを登録すると、パークでの当日の予定をジーニーがサジェストしてくれるというものに仕上がっている。“Your adventure is Your Choice, and it's just a wish away.”「選択があなたの冒険になります、あとは願うだけ」のキャッチコピーが気持ちいい。

動画の低評価率を見ればわかる通りこのサービスに対しては否定的な意見が多いのだが、これまでの議論を踏まえれば、こうした統合サービスの登場はある意味で必然的なところがあるということがわかるだろう。
つまり、ゲストの動きをトータルコーディネートする役割をパーク側で受け持つことで、このサービスは「自国の軍隊に基礎をおく」ことを貫いている。

東京ディズニーリゾートはその前段階にあって、この状態では形勢は逆転する。それが、東京ディズニーリゾート・アプリに顕著に表れている。

当初の機能は「デジタルガイドマップ」「ディズニーeチケットの購入・表示」「ショーの抽選やレストランの事前予約」「ホテルのチェックイン」「ショッピング」であり、その後も継続的に機能の拡充を行なってきた。

2019年7月22日 ファストパス
2019年9月3日 「フォーエバー“ワンマンズ・ドリーム II ”」キャンペーンのスタンプラリー機能
2019年12月19日 ラッキープラス 春のもぐもぐキャンペーンの機能
2020年2月13日 ディズニー・フォト
2020年9月17日 スタンバイパスならびにエントリー受付の機能
2021年6月21日 「グループ作成」機能
(‎『「Tokyo Disney Resort App」をApp Storeで』より作成)

これらに一貫しているのは、オフラインでこれまで運用していた機能をアプリケーション上に書き起こしているに過ぎないという点だ。ゲストは、自ら好みのアトラクションやエンターテイメント、レストランを選び出して、それらをオーガナイズし、そこへの入退場をアプリで管理しているに過ぎない。

また、スマートフォンの利用が増えることは、それ即ち、ウォルト・ディズニーの作り上げたディズニーの世界から離れて独自の生活圏とクロスする場面が増えることを示唆している。

スマートフォン上で活躍するパークの機能が発達したことで、ゲストは必然的にスマートフォンを見ることになる。そして、スマートフォンには、通知や他のアプリを通して常に日常が介在している。我々は、東京ディズニーリゾートを楽しもうと思えば思うほど、むしろ現実世界に触れる機会を増やしてしまうのである。
(記事より)

こうした二つの側面から見て、東京ディズニーリゾートにおいて、ゲスト自身はウォルト・ディズニーの「環境管理」を離れ、自分のめぼしい施設だけをピックアップして独自のディズニーランド観を形成することになるだろう。ここでは、マキアヴェリズムに「君主」と言い表される存在はウォルトではなくゲスト自身になっている。

現在、パーク側はDヲタたちそれぞれが保持するマイ・ディズニーすべてを受け入れることを目指すような、より包括的なメタテーマパーク構造の構築とメンテナンス、そして変革に余念がない。パレードの分析でみたように、物語が存在せず様々なキャラクターがカオス的に登場するその光景は、Dヲタの数だけパレードの読み取り方が異なるという状況を作り出している。もしあなたがDヲタだっやら、こんなにも私だけの夢をかなえてくれるパークやパレードはこれまでに存在しなかったという感慨さえもつのではないだろうか。
(新井克弥『ディズニーランドの社会学』)

現代版『君主論』を整理する

これまで、マキアヴェリズムの教義を再検討した上で、ディズニーランド、東京ディズニーランド、東京ディズニーシー、現在の東京ディズニーリゾートを見て周り、そこに存在するマキアヴェリズムの構造を見てきた。

マキアヴェリズムはかつて、冷徹冷酷な権謀術数の思想と呼ばれてきた。
『君主論』が書かれたのは14世紀で、出版はマキアヴェリの死後5年が経った1532年である。
その後王権の拡大に伴って「絶対王政」と呼ばれる時代が続いた後、イギリスで生じたいざこざの中で、1776年にはアメリカ独立宣言が発表される。これが1783年には承認され、その承認があったフランスで1789年に革命が勃発する。その後、20世紀の二度の対戦を経た現代では、多くの国が民主主義を採用している。

しかし、上述した通り、東京ディズニーリゾート・アプリの展開は、マキアヴェリズムを『君主論』から「国民論」へと変貌させているし、これは別段パークに限った話ではない。現代に、マキアヴェリズムは益々その必要性を高めていくのではなかろうか。

例えば、2020年度に実施予定だった大学受験の大きな改革が、当時の文部科学大臣の一言で物議を醸したことがあった。

発言は24日夜のBSフジ「プライムニュース」でのもの。英検などの民間試験の利用で、受験生の経済状況や地理的条件によって不公平が生じないかと問われ、「それを言ったら『あいつ予備校通っていてずるいよな』というのと同じ」と反論。「裕福な家庭の子が回数受けてウォーミングアップできるみたいなことがもしかしたらあるのかもしれない」と述べた。試験本番では、高3で受けた2回までの成績が大学に提供されることを踏まえ、「自分の身の丈に合わせて、2回をきちんと選んで勝負して頑張ってもらえれば」と答えた。
『萩生田文科相「身の丈に合わせて」発言を謝罪 英語試験:朝日新聞デジタル』より)

結局、この民間試験の利用は延期を強いられた。
こうした類の問題について、話題は事欠かない。いわゆる「親ガチャ」という語彙や、新型コロナウイルスに関する騒動でも、子供たちはいたって冷静だと言われる。

このような状況を反映して、いまの日本には「努力しても報われない」と諦観を抱く若者たちが増えている。統計数理研究所が実施している「日本人の国民性調査」で、1980年代と2010年代のデータを比較すると、この傾向は若年層の男性でとくに著しい。
人生はなかなか思うようにいかない。生まれたときから定められている宿命のようなものだ。自分の努力で変えることなど出来ようもない。そんな思いを抱えた学生たちが増えていてもおかしくはない。親ガチャはこのような時代精神が投影された言葉といえる。
『格差拡大、貧困増大…それでも「若者の生活満足度」が高いこれだけの理由(土井 隆義) | 現代ビジネス | 講談社(2/6)』より)
子どもたちは思った以上にクールだ。そして口々に「今はコロナで緊急事態なんでしょ? 私たちのことを思っているにしても、逆に経済とか国の体裁を大事にしてるとしても、なんか……全然筋が通ってないよね」という。
(中略)。
「政治家や有名人、世の中の大人への信頼度はガクンと下がった。言動の筋が全然、通ってないから。『経済回さないといけないし―』とか『どうしても外せない用事で』とか『お酒は飲んでない』『会話してないから』なんて、私たちが言ったら『屁理屈だ!』って怒られるレベルの言い訳を自分たちは平気でしてる。がんばっている大人もいるのは知っているけど、世の中を動かしている中心にもこういう人たちがいるのを見ると、ホントがっかり」(Dさん)
『信頼できるのは「HIKAKIN」。筋を通さない大人たちに15歳が言いたいこと(太田 奈緒子) | FRaU』より)

こうした時代において、「合理的判断に基づいて、できることはやり、できないことはやらない」というニュートラルな姿勢は、むしろスタンダードだ。
こうした論調から、近年浮上した語彙である「繊細さん」や、論理的で効率的な人間への人気が高まっているトレンドを見出すことは、些か早合点であるかもしれないが……。

さて、既にマキアヴェリズムがインストールされているこの手の若者に対して、マキアヴェリズムを積極的に利用していくべき人間もいる。

「好きなことで、生きていく」はもう5年以上前の広告だが、未だにYouTubeの市場は伸び続けている。ちょうど2021年9月にチャンネル登録者数1000万人を突破したHikakinTVが旗を振り、自由な生き方が容認され始めたのはむしろ現代の特徴だ。

また、経済産業省によれば、2020年度に設立された大学発のベンチャー企業は2905社で、2019年度の2566社から大幅に増えている。こうした動きからも、現代の若い世代が意欲を持って自分のやりたいことに直向きになっているという事実は確かに存在する。

そこで着目したいのはSNSだ。総務省の情報通信白書より、第4章第2節によれば、2020年の日本国民全体で、平均して7割がSNSを利用している。最も高い割合は20〜29歳の90.4%で、最も低い6〜12歳が登録できないサービスが多いとしても、次に低い70〜79歳では47.5%とおよそ二人に一人になっている。

スマートフォンの発達した現代においては、リアルライフに加えてSNS上にもうひとつの社会が形成されている。YouTuberという存在をとっても、スタートアップ企業の立ち上げをとっても、デジタルネイティブ世代と呼ばれる今の10〜20代に広く普及したインターネットの利用は欠かせない。
例えばツイッターでは、顧客に親しく接することで人気を高めている企業アカウントも多い。東京ディズニーリゾートの例では、2021年に20周年を迎える東京ディズニーシーを祝って、東京ディズニーシーのオフィシャルスポンサーがツイートを引用してつなげる #おめでとうつなぎ が行われた。

逆にSNS上では、自身の素性を明かすことなく匿名でアカウントを運営することもできる。このnoteを書いているTamifuruDも(当然だが)本名ではないし、こうした文章の書き味と実際の個人とでは、性格にずれもあれば乖離もあるだろう。どの情報は公開し、どの情報はプライバシーの範囲内に含めるのか、とは非常に重要な要素である。

ここで着目しなければいけないのは、インターネット上では「個人」というものは存在せず、そこには「アカウント」があるだけであるということだ。

要するに君主は、前述のよい気質を何から何まで現実にそなえている必要はない。しかし、そなえているように見せることが大切である。いや、大胆にこう言ってしまおう。こうしたりっぱな気質をそなえていて、後生大事に守っていくというのは有害だ。
(マキアヴェリ/池田廉(訳)『君主論』第18章)

これは、別段YouTuberや企業アカウントなどに限ったことではない。SNSのミュート機能やブロック機能は、基本的に誰にでも平等に与えられた権限なわけで、自らのタイムラインを自ら「環境管理」していくことは、一般人にとっても必要な才覚となってくるだろう。

『君主論』、乗るか反るか、はたまた読むか

事実、今回参照した『君主論』は、2018年2月末に初版が出た比較的新しいものである。表紙には、この本の有用性をアピールする文が並んでいる。

「(本書の)ノウハウは21世紀のマネージメントでも十分通用する」
「混迷な時代を生き抜くための、絶対的な“教訓”がここにある」

マキアヴェリズムを通して東京ディズニーリゾートを楽しむと言う視点は、些か斜に構えたしたことではないように思う。それは、東京ディズニーリゾートの特異性や、読者諸氏や筆者自身の持つ興味のおかげではない。マキアヴェリズムは根本として、「コントロール可能な範囲を維持せよ」というあまりにもささやかで単純な部分まで捨象することが可能だからだ。

東京ディズニーシーのエントランスには、マキアヴェリの生まれ育ったフィレンツェが再現されている。マキアヴェリと東京ディズニーシーに共通するのは、時代に支配的な通念に騙されず、自分の信じる正しさを進むことだ。

「目的のためには手段を選ばない、権謀術数の思想」ことマキアヴェリズム。近年では、その冷酷さは民衆のみならず、君主自身にも牙を剥くようになってきた。それは、マキアヴェリのかつて用いた論理的で冷徹な思考力に由来している。

しかし、同時に忘れてはならないことがある。私たちには、東京ディズニーシーがあるということだ。

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