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【感情の棚卸し】何故努力しないと自分が必要ない人間だと感じるのか

うまくまとまるか分からないけど、書いてみる。

GW以来の四連休の最終日、何もする気が起きなくて、ただいろんな場所へ散歩に行きながら、本を読んだ。

たまたまTwitterに水泳選手の引退表明ツイートが流れてきた。

このツイートをじっくり読んでしまったのがきっかけで、治りかけの心の傷が実は全然癒えてないことに気づいてしまった。

彼女は、ずっと「死にたい」という気持ちが1日中ループしていて、薬を飲まないとその考えが止められないのだ、と書いていた。

「死にたい」とか「殺したい」という気持ちが止まないのは、うつ病の症状の一つの特徴で、治療で治すものだということも綴っていた。

僕は「目が覚めて気がついたら包丁を持ち自分を刺そう」としたことはないけど、料理をしている時に「この包丁を脇腹に刺したらどうなるかな」と思ったことはある。とても怖くなった。

どうして、必要以上に思いつめてしまうのだろうか。

死ぬことなんかいつでも出来るのに。

その理由は、二つあると思った。

・「自分の人生は自分でカタをつけなければいけない。失敗しても本当に助けてくれる人は誰もいない。」と考えてしまうこと。
・「今貧しかったり苦しかったりするのは自分の努力が足りないせいだ。将来裕福になるには、今の自分の努力に全てかかっている」と考えてしまうこと。

この二つの考え方を僕もよくしている。

まず、自分の人生は自分でカタをつけなければいけないという「自己責任論」。

「職場で評価されず、職を転々としてしまうのは、自分に欠陥があるから、努力が足りないからだ。もっと頑張れ。もっと努力しろ。他人を頼るな。」とか。「もっとお給料のいい仕事につくには、努力しないと無理だぞ」とか。

7月に職無しになってから、もっと努力しなくてはいけないと思い過ぎて、ちょっと疲れてしまった。

家に積ん読していた内田樹さんの「呪いの時代」という本には、むしろ逆の考え方が書かれている。弱い人こそもっと人に頼らなければ、弱い立場のままだと。

でも、弱者が発生した瞬間に自動的に排除するようなものを「コミュニティー」と呼ぶのはおかしくありませんか?病気になった、破産したという話を聞きつけたら、「じゃあ、とっとと荷物をまとめて出て行け」というような人たちの集まりを「コミュニティー」と呼べますか?僕は呼べない。本来、共同体というのは、その成員の誰かが破産したり、失業したり、病気になったり、狂ったりしたときに、それでもその人を受け容れ、保護し、支援し、フルメンバーとしての条件を回復できる日を気長に待つというセーフティーネットのことではないのですか?成員条件を欠くものでも成員として含むことができるコミュニティーでなければ、その語の厳密な意味でのコミュニティーとは言えない。僕はそう思います。(「呪いの時代」p.163)

分かっているつもりだった。でも、これはある程度自分の意思が強くないと続けられない考えだなとも感じた。

病院で働いている時、沢山の弱っている人達を見た。出来るだけ負担のかからないように検査を進めるように配慮していたつもりだった。

前職では、転職活動中の様々な方々にお会いする機会があった。出来るだけ、一人一人に心を配って面接を進めているつもりだった。入社後も、楽しく働くことが出来ているか、時々ヒアリングしていた。

でも、気を遣ったり、誰かのために配慮することは、普通明らかに見返りを求めるものではないから、気づかれなければ、見過ごされてしまうことばかりだ。

世の中のあらゆる業界で、知らない場所で誰かのために汗をかき、働いている人がいる。その働きに対する十分な見返りをもらっている人がどれだけいるだろう。

ちょっと考えたくないなと思った。

駅のホームでハローワークの封筒を持って電車を待つおじさんがいた。世の中の雰囲気を、背中で感じると、どう考えても世の中は見えない怒りや悲しさが充満しているのに、全てのことに目を向ける想像力と体力が足りない。

弱い人は、やっぱり自分の身の回りのことで精一杯なんじゃないだろうか。

どうしたら、そんなシニカルな考え方から逃れることが出来るだろう。

自分は自分を出来るだけ楽しく生きることしかないんじゃないのかって。

二つ目の「将来裕福になるには、今の自分の努力に全てかかっている」という考え方は、将来のために利子付きの借金を作ることに似ている。

「富は自分自身の将来からやってくる」

5年後、35歳くらいになったら、もう少しお金持ちになりたいなーってよく思ってる。でも、これも罠かもしれない。

もし、そうならなかったら、「水泳に向き合うことで、むしろうつ病を悪くしてしまう」のと同じくらい、自分を追い詰めてしまうと思う。

そのせいで、今の現実が不安になってしまうことに意味はあるのだろうか。

仏教のお坊さんが、現実で出世してお金持ちになる社会人の競争を「凡夫のレース(ゲーム)」と呼んでいるのを雑誌で見たことがある。

要は、ただのゲームなのだ。

大変だったら無理してゲームに乗る必要もないのに、乗っている。

もっと必要とされて、将来もっとお金を得るために。

存在給という言葉もあるけれど、自分の命を粗末にするほど頑張る理由なんてどこにもない。

書くの疲れたから、これで寝る。

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