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自分で決める

連日カレー。昨夜は「チキンと蕪」&「キャベツとじゃがいも」の2種類が食べられるデラックスセットをいただきました。セットのドリンクは「塩ラッシー」。前日に別のお客さんが頼んでらしたのを耳にして飲んでみたかったのでした。ほんのりわずかに塩味がして、ローストカルダモンを砕いたのがトッピングされていて、甘いラッシーよりも好きです。タピオカドリンクじゃないけど、「具」や「トッピング」をいろいろ工夫したら面白そう…と妄想が膨らむ飲み物でございました。

そんな昨日はワクチンのおはなし会。カップルでのご参加も複数あって時代の移り変わりを感じます。

ワクチンのでき方からカラダのしくみをていねいに説明していただいたのでわかりやすかったです。
ワクチンが何でできているか、培地、アジュバント、保存料の話は全く知らなかったのでこわいなと思いました。
何も知らずに8ヶ月の息子には予防接種を受けさせてました
病気ごとの説明と代替案的情報を教えてもらえたのがよかったです。
選択できるということがわかりました
今日は家族で聴けてよかったです
今までお医者さんに言われるがままに予防接種を受けてきました。
これからは自分たちでよく考えて選んでいきたいと思います。
今日は貴重なお話をありがとうございました。
去年の7月にオランダより家族で帰国して、あちらではアントロポゾフィーのドクターと検診を受けていたので予防接種関連のストレスはなかったのですが(きちんと相談できていたため)日本ではどう対応していけば良いのか悩んでいたので大変ためになりました。
聞いたい情報を知れたので、参加させてもらい勉強になりました。ありがとうございました。
自分たちは何もわからずに受けていた予防接種ですが、子どもに本当に必要か?何がよくないのか?必要なときはいつか?など知らないことだらけで判断する情報が足りなかったので聞きに来ました。子どもに受けさせるものを考えたり、時期を考えたりしていきたいと思います。
約4年前に受講し、2回目の受講でした。長男と次男では定期接種の数も変わってきていたこと、次男の3歳児検診でドクターから問診で言われた言葉にモヤモヤしていたので、改めて勉強したくて受講しました。知識の再確認をすることができてよかったです。

「ワクチンがこんなに怖いものだとは知りませんでした」という感想は頂いたことがありません。わたし自信そう思っていないし、そういう受け取り方をなさる方がいないように注意を払っているので当然と言えば当然ですが、中にはワクチンや予防接種を一括(ひとくくり)にして「不必要なもの、ただ有害なもの、人口削減の陰謀に用いられている…ダメ、絶対」という受け取り方をされかねない伝え方をしている発信も見受けます。どんな言説も今は自由に発していいし、それをどう受け止めるかも個人の自由に任されています。だからこそ、伝え方には慎重でありたいと思っています。

歴史的なことであれば、今はインターネットを使って手軽にファクトチェックができます。下地に必要な情報もそれほど必要ありません。歴史修正主義や民族or人種など特定のカテゴリに属する人に対する差別感情に基づく情報さえ区別できれば、ですが科学情報になると別の視点が必要になります。販売促進のための情報なのか、純粋な科学情報なのかを見分けるための視点です。科学は日々進歩しているので、最新の情報に更新しつづけるのがお作法だと思いますが、何かを販売するために都合の良いデータを引いた情報は表向きなかなかアップデートされません。だから薬害が起きたり、公害が起きても因果関係を証明するのに大変なエネルギーが必要になるのです。これはワクチンの副反応も同じ。

ワクチンのおはなし会はいろんな人がするようになりました。今は医師でも発信なさる方が以前より増えました。ワクチンは予防医療で用いられるものなので、医師がどう考えているのかをどんな意見であれ表現されたものには力があります。聞いた人の選択に影響を与える力です。昨年はワクチン関連の公演を続けておられた医師の中に、「ワクチンのお話会はやめる」という決断をなさった方がありました。理由は公表されていません。いろんな憶測が飛び交いましたが、公表なさらないのですから確かめようもなく、どれも「参考」にファイルするにとどめております(ひろの脳のファイリングシステムについてはこちら

なにを利用するときにでも言えることだと思うのですが、「だれが」「いつ」ということを抜きに、利用するなにかの善悪や可否を語ることはできないと思います。例えば、子ども会のイベントかなにかで真夏の炎天下にほったらかしにされることが予想される小学生男子のリュックに、「ヤマ◯キのラ△チパック」がお弁当代わりに入っていたとして、わたしは責める気には全くなりません。でも、幼稚園児のお弁当が毎日それだったら、「たまにはご飯炊いておにぎり作ってみようよ」と言いたくなります。1年かけて準備したプレゼンだから今日は休むわけにいかない…という人が解熱鎮痛剤を使って会社に行くのを止めようとは思いませんが、毎月の生理痛に使う鎮痛剤がどんどん強いものに変わっているのにそれ以外の対策をしない人には「原因をはっきりさせて治しましょうよ」と言います。同じものでもそれが用いられる状況によって、「意味あい」が違うのです。同じものでも用いる人のバックグラウンドによって、「必要性」が違います。ワクチンもひとつひとつ違うのです。ワクチンが準備されている病気ひとつひとつの状況が違います。ワクチンが準備されている病気ひとつひとつの状況は国や地域によっても違います。だから、「ワクチン」と十把一絡げに語ることはできないのです。

もうひとつ、どんな情報も「信じなくていい」と思っています。というと反対語の「疑う」という言葉が思い浮かぶ人もいそうですが、それよりも「信じること」の危うさを理解してください。いったん信じてしまったらそれは「正しいこと」として行動や選択に影響を与えます。そして信じてしまったことを再び検証することはあまりありません。行動選択における決定を自分自身の感覚や意識ではなく「信じていること」にゆだねてしまうのです。

「ワクチンは有害である」という説を「信じて」しまったら、大切な我が子にどうしてワクチンを使うことができるでしょうか。有害なワクチンを接種させないことが正しく賢い親であると信じているのです。信仰に問いかけが必要ないように、信じたことから「問い」が生まれることはめったにありません。「問い」が生まれないということは、思考が停止しているのと同じです。自分で考えなくて済むので楽かも知れません。仕組みまで理解していな「4πR²」という公式を知っていれば球の表面積を求めることは可能です。でも、「豆腐は健康食品である」「牛乳は完全栄養食である」「学校にいかないと社会に出たときに困る」「3高(背、学歴、収入)の男性と結婚したら幸せになれる」というような「説」は誰にでも当てはまる「公式」のような正解を導くためのものではありません。

とりあえずテストで点をとるために数学の公式を信じて覚えて使うように、ひとつひとつの情報を信じるのは危険です。「ワクチンは有害である」「医薬品は危険である」を信じても、「病気はワクチンで防げます」を信じても、それでは対応できない出来事が起きる可能性はあります。現代医療によって救える命、防げる事態があることを忘れたくないです。ワクチンはそれを使ったらもうその病気(感染症)には絶対かからないなんてことはないし、感染症を防げても他の病気になる可能性はゼロではないのです。

何かを決めるためにはその理由が必要です。特に、これまで「専門家」に任せておけばよかった選択を、自分でするとなったときには、確かな情報が欲しくなります。そして集めた情報の中の「何を信じたらいいのか…」と混乱することもあるでしょう。そんなときに思い出してほしいのです。

「信じなくていい」

何かを決めるための情報として「参考」にするのか「採用」するのかの分類をすればいいのです。

そして決めかねるようであれば、決定を「保留」にすることも覚えておいてください。


「自分で決める」にあたり、信仰は必要ありません。アップデートできない信仰に基づいて決めたり、誰かに決定権を委ねたりするよりも、採用した情報をどんどん更新しながら自分の感覚を大切にして「自分で決める」。わたしがどうすれば幸せで、安心で、心地よく、パワフルでいられるかは、わたしが一番よく知っているはずです。

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そして、今日のカレー。ユキコさんの「パクチーカレー」。たいへん美味しゅうございました。

お陰様で元氣です。


ではまた

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