2021/3/30-31(水)わかりやすさの罠
わかりやすいものにこそ、眉唾を。
昨日の続きから展開します。
多くの相撲ファンには時に不評の舞の海さん解説があの路線のまま継続している理由、それは間違いなく「あの解説を支持している層がいるから」でしょう。では一体だれが?
ライトな視聴者。日本人だから応援するとか、弱い大関けしからんとか、休んでばかりの横綱引退しろとか、昨日から見始めても言えることしか言わないような層。お相撲に限らずスポーツ観戦をなんらかの憂さ晴らしにしか思ってなさげな人。
そういう人たちにとってはものすごくわかりやすい解説でしょうし、それこそ「俺たちが思っていることをよくぞ言ってくれた!」の拍手喝采ものなんでしょう。
わかりやすいもの。それは、私たちの頭の中にそもそもあるもの。
私たちの中にあるものを語ってくれているだけなのに、この人はなんと世の中のことをよく知りよく理解している人なんだ。
そんな勘違いを私たちは犯しがちだなと、最近特につくづく思います。
この人わかりやすいなと思うとき、私たちがまず疑わなければならないのは、これはただ単に私たちの頭の中にあるものを言語化してくれているだけなのではないか、ということ。実際に起きていることではなく、私たちが理想とし、こうあってほしいなという希望を、あたかも事実のように語ってくれているだけなのではないかと。
それは以前仕入れた知識の復習作業であり、既存の感情、既存の思い込みの確認作業でしかありません。
気づいたならば、この麻薬のようなスパイラルから勇気をもって抜け出さないと。
だけどそれこそが心地よいという人たちが一定数存在しているということも私たちは気にしておいたほうがいいみたい。新しい知識も現実も必要としていない人たちがいるということを。
わかりやすいものにこそ、眉唾を。
と同時に、わかりやすいものだけを必要としている人たちもまた少なくないという事実を。