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「そばにつゆをつけて食いてえ」


小噺や落語というのは、皮肉と世辞がうまく混ざった滋味ふかい「つゆ」のようで、せわしない人生であるならばこそ、最後まで粋にまいりたいものだ。


本当にそばの味を好きならつゆをつけねえで食うんだなんて、このひと、長年の間つゆをつけないで食べてた。このひと、患いましてな、もういよいよ危ないとなったときに、何か遺言はありませんかと言ったら、「死ぬまでにそばにつゆをつけて食いてえ」と言った。
古今亭志ん生 小噺十八番)


亡き父の誕生日に、この小噺を思い出した。

父はおそばが大好きだった。そば打ちこそしなかったが、実家に行くたびに上手にそばを茹でてくれ、上手に食べた。


クリスマス・イヴの晩から今朝にかけて、新調した陶芸の電気窯を初始動した。「素焼き」なので、作品が完成する段ではないが、誕生にもってこいの日なのではないか。マイコンの新プログラムを組んでみたものの、不安でたまらない。こんなときは、神だのみならぬ父だのみ。

独立してから20年のあいだ焚き続けた窯も、そして父も寿命だったのだ。

父の死に関しては、敬意とともに、すこしの後悔がある。

心臓疾患と血液のがんを併発していた。亡くなる前のお正月は、そんな診断はくだされていなかったし、嬉々として「もろもろの終活は済んでいる」と自慢気に言いながら、いつものようにおそばを茹でてくれた。


「ひとさじの骨粉を入れるうつわを娘にオーダーしたい」と父は照れながら言った。「なんだか縁起わるいなあ」と、こちらも照れなのか、怖さなのかわからないまま、すぐにつくり始められなかった。「これからの時代は陶芸家にそういう商売もくるぞ!」とまで威勢よかったが、あれも、父の照れだと思っていた。なにをモタモタしていたのか。


揺らぎないポリシーを抱いていた父は、「延命治療の拒否」(治療の方針から死にかたまで)、「葬儀の簡素化」(直葬パッケージ前払い)、「お墓なし」(都内青山の墓を譲渡・遺骨なし)などを綿密に計画し、ノートにつづっていた。当時はとまどうほど斬新な内容で、わたしは親戚をなだめ、理解したと口先だけの母を日々説得し、妹とは喧嘩した。今では父を誇りに思い感謝している。

あんなに父が拒否していた心臓の大手術。それなのに、家族が医師に説得させられてしまい、結果、命を早めた。とりとめた命がトリガーとなり、苦しみに導いたことを後悔している。


オーダーされた「うつわ」は、ちいさなお墓。
最後まで納得できないだろう母を見込んだかしこい方法だった。


術後の危篤から、急いで例のオーダーを進めた。「待っててね」と心でなんども唱えたけれど、どう考えても遠方への毎日の看病と窯たきは併走できなかった。残る方法は、これしかない。

ちいさな土鍋を持ってゆき、鼻と口をふさぐ呼吸器をつけ、かすみの意識で生きる父の手に置いた。病室には誰もいなかったので、素直になれた。

当初、美大に進むことを反対した父、好きなことを仕事にするなんて数パーセントだと言った父に、「陶芸を学ばせてくれてありがとう」と心からの礼をいい、「これでどうかな、ちいさなお墓」と聞いた。聞こえているのかな?と思うような弱々しい魂に、見合わない呼吸器のシューシューという音が無粋でならなかった。

力なんてないはずなのに、土鍋のふたのつまみを持った父。そのつまんだ指のまま、それを「OK」にした。


「ねえ、なにが食べたい?」

「寿司がダメならそばかな」と、父が言ったので、おそばを自作のそばちょこに入れて病室のベッド横に置いた。これが最期の晩餐になるとは知らず。

母とわたしに「売店でアイスでも買ってきたらいい」とマスクの奥から言葉が見えたので、うれしくて走った。少し起きて食べる?と言ったら「あとで」と言った。なんだ、いっしょに食べるんじゃないのねと、母とわたしは笑いながら食べた。


「ありがとう、もう遅くなるし帰ってくれ」と父の口が動いた。

そばちょこの中の乾いてしまったおそばと、紙のパックの中でとけたアイス。それでも、なぜか、かなしくはなかった。それじゃ、食べちゃうよと、濃いつゆをたっぷりつけて、江戸っ子の父のかわりにズズッと、しっかり食べた。


あとがきコッチョリーノ 

▶︎クリスマスのきょうは亡き父の誕生日ですが、イヴは家人の誕生日でした。子どもの頃からの「メリークリスマス」より「お誕生日おめでとう」の習慣はそんなこんなで、この先もつづきます。▶︎新調した窯の具合は、本焼きを済ませなければわかりません。藁をもつかむように、満ちた憧憬にぷかり浮かんでみながら書きました。▶︎父が亡くなって4年経ちますが初めてこんなにプライベートなことを。それもこれも個展が延期になるくらい窯の調子に悩まされた今年、心機一転、心の中まで片付けました。あとは父への請求書を書かねば、ね。▶︎あれから毎晩、家人か息子どちらかが、亡き父に小皿で食事を出してくれています。照れるのでわたしはしません。今夜はおそばにしようと思います。▶︎最後に、いつも読んでくださるみなさまに、粋な笑いをクリスマスの贈り物に代えさせていただきます。志ん生「小噺十八番」の土瓶を土鍋にかえて。「土鍋が漏るよ」「そこまで気がつきません」おあとがよろしいようで。





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