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やわらかな共生と陶芸家かあさん


ちなみに「かあさん」と呼ばれたことも「ママ」と呼ばれたこともないし、冷蔵庫はからっぽだし。

みなさまいろいろなご事情でご多忙な毎日お送りのことだと思われ。ご多分にもれず我が家も。冷蔵庫のみならず、お財布も、アタマも、体力も、あちこちが空っぽであるが、おかげさまで踊れるほど元気。

今夜は、冷蔵庫にさみしく待っていたものだらけでつくる夕餉。玄米、もずくと胡瓜の酢の物、南瓜の土鍋せいろ蒸し、残り物の野菜スープとサバの味噌煮。食いしん坊の料理好きだが、超クイック。仕方ない。



炊事、洗濯、掃除、ゴミ捨て、笑わせ、励ましなどなど、我が家の家事は、家族3人ほぼ同じくらいの比率で治められている(追記:2020年現在かあさん比率大幅減)。かあさんらしくないことを暴露しているようなものだが、分担はなく「やれる人がする」という暗黙の了解。やれなかったら考える。受験生であっても迎合はなかった。外に仕事に出ていても、家でぼうっとしていても、みんな理由あってがんばっているのだから。必要なのは協調性ばかりでなく孤高である。ときに体調を崩す人もいるし「ふにゃふにゃ、できないムリ」と言い訳や具合悪い演技も許す。(演技するのは私だけ)


これは「ココで生きる」ための自由であり、裏返せば「共に生きる」手段。「やれる人がする」という了解で暮らしていると判りやすいことがある。幼子、高齢者、病と闘うかた、その他の理由でも、お困りなかたには、手を差し伸べる必要性があるということ。

写真「南瓜の土鍋せいろ蒸し」
※岩塩まぶすだけ


青春が幼稚園から高校まで学んできた学校はユニークだったが、今でも特別だとは思っていない。当たり前だと思っている。

重視してきたことのひとつが「共に生きる」。車椅子の生徒も海に入るため生徒と教師が工夫をこらす。特別でない当たり前をつくる。

身体に不便がある生徒もリレーやヒップホップダンスをして心は輝き満たされる。際物でない定番。読み書きが苦手であればタブレットで補い、集中するのが苦手であれば別室環境で試験を受ける。変則でも原則でもない権利。聴力や視力にこまれば、同時字幕や通訳を生徒が率先し、ふだんから声掛けなど面白いくらいの工夫をする。特別でなく当たり前。

ただし、少しだけ手を差し伸べる。
(差し伸べてもらうことだってある)


彼の学び舎には校則がない。
これを無条件ですばらしいと高みにあげるのは禁物だ。実際、子どもなんだから、はちゃめちゃに破壊されそうな事件も起こる。そんな状況になるたびに「それは自由とはいえない!」というようなことを、しょっちゅう生徒たちが議論する。教師も生徒を尊重するから勉強は進まない。まあ、今思えばそれでよかった。

共生するのに必要なのは、規則ではなく「互いに考えることなんだ!」と、子どもらが鼻をふくらませて主張する。「真の自由」と「はきちがえた自由」を分別して生きようとしているのだ。


あらゆる子どもたちが個性に悩み助け合いながら生きる姿を15年のあいだ黙ってみてきた。まどろっこしくもあるが、大きな勇気をもらった。(2020年現在は大学生なのでこの学校を出た)


わが家も、まあその延長的な考えであると言っておこう。

さあ、今夜はまだ誰もいない。
仕方がない。ごはんをつくれるひとは「わたし」であるようだ。

やわらかな共生とは、家庭の中からじわじわ生まれると願いたい。

(2017.03.22)


Cocciorino 地球のかけら


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