「霊的進化」とは自分を客観視できるようになること?:AM
明けましておめでとうございます。
今年も玉光神社noteをよろしくお願いします。
「進化」するポケモンは成長しているに過ぎない
昨年、MOA美術館の「ポケモン×工芸展」を観に行きました。
今、麻布で観られるらしいので、わざわざ熱海まで行く必要はなかったのですが、MOA美術館に一度行ってみたかったのです(ちなみに創立者の岡田茂吉氏は世界救世教の教祖です)。
ピカチュウ、可愛いですよね。
それはともかく、ポケモン(ポケットモンスター)と言えば、言わずと知れた、ニンテンドーの人気ゲームです。
ポケモンと呼ばれるモンスターを捕まえ、集め、育て、そして戦わせるというゲームで、「育てる」中でポケモンが「進化」することがあります。
ピカチュウがライチュウになったり、ヒトカゲがリザードに、リザードがリザードンになったり。
「ポケモン×工芸展」でも、その「進化」(ココガラ→アーマーガラ)を具具現化した展示がありました(とても良いです)。
分からない人にはさっぱり分からないと思いますが、ここでの「進化」は、芋虫が蛹になり、蛹が蝶になるようなものです(実際のポケモンでも、そのような「進化」をするポケモンがいます。)
ですからここでの「進化」とは一般的には「成長」と呼ばれるものです。
神智学的「霊的進化」とダーウィンの進化論
ところで、玉光神社でも「進化」という言葉が語られてきました。
特に初代宮司・本山博は「霊的進化」を、人間の生きる目的として提示していました。
この「霊的進化」という言葉は、神智学から借用されてきた用語であると思われます。
神智学で言われる霊的進化は、単純に言ってしまえば、輪廻転生を繰り返して精神的な学びを深め、神に近づくということです。
イメージとしては、ピラミッドのように階段状の三角形の一番上を目指して登っていくという感じでしょうか。
進化をすれば、より優れたもの、単純なものから高度なものになるという意味では、この進化観は、ポケモン的な進化観と構造的には同じです。
こうした「進化論」はダーウィンの考えていた生物進化である「進化論」とは異なります。
単純に言えば、ダーウィンの進化論は直線的に進まないということです。
何か一つの究極のもの(それがライチュウでも神でも構いませんが)に収斂していくという進化論ではなく、ダーウィンの進化論は逆に、進化の先は多様なものになります。
ダーウィン進化論は、したがって、収斂のプロセスではなく、「枝分かれのプロセス」なのです。(ロビン・ダンバー『宗教の起源:私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』小田哲訳、2023(2022)年、白揚社、44頁)
本山博の説く「霊的進化」も神智学的であり、一つに収斂していくイメージを持っています。
人間が霊的に進化をして、いずれ神と一体になる、ということも明らかに意味しています。
ですから、厳密には(ダーウィン的な)「進化」とは言えず、どちらかと言えば、「成長」「発展」と言うべきです。
そうしたことからか、現宮司である本山一博はあまり「進化」とは言わなくなってきています。
本山博も、度々「霊的な成長」と言っていますので、あまり語彙にこだわりはなかったのかもしれません。
霊的な成長とは、自分をより客観的に見られるようになることである?
言葉にこだわる必要はないのであれば、重要なのはその意味内容です。
本山博は「霊的成長」について、このように語っています。
端的に言えば、自分をいかに客観視できるかが霊的成長の目安と言っているように読めます。
あるビジネス書に同じようなことが書かれていました。
そこでは、「知性」は何歳になっても成長するということを論じているのですが、知性のレベルが上がるポイントを、「主体客体」の線引きに見出しています。
それを簡単に言うなら、自分の思考や感情を客観視できることが、知性が高い、つまり成長している目安だということです。
(ロバート・キーガン、リサ・ラスコウ・レイヒー『なぜ人と組織は変われないのか :ハーバード流 自己変革の理論と実践』 池村千秋訳、2013年、英治出版、 Kindle版位置No.430)
ふと思い出しましたが、「自由」をかかげるある教団の方が、その「自由」の意味は「対象との距離を自由に変えられる」という意味だと仰っていました。
その時はなるほどなぁ、と思っていたのですが、これもまた主体客体の線引きに通じる話かと思います。
ということで、宗教的であれ、世俗的であれ、「成長」は自身をいかに客観視できるかということが関わっているように思います。
もちろん、「霊的な成長」には、もっと神秘的なものがあるには違いなく、こんな凡庸な事柄がすべてではないとは思いますが、信仰心のない方であっても(少なくとも何も分からない私には)、これなら理解、共感ができるのではないかと思っています。
自分を客観視する。
今年一年の抱負としては壮大すぎますが、私も努力していきたいと思います。