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自殺幇助

筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者女性(51)の依頼を受け、殺害した疑いがあるとして、7月23日、宮城県の大久保愉一容疑者(42)と東京都の山本直樹容疑者(43)が逮捕された。

さてさて、この手の事件は旧態依然と中身は一切進展を見ない日本。やはり日本と言う社会は「有耶無耶」が好き。

今回も半年もすれば誰も「生きる権利、死ぬ権利」など口にしないだろう。当事者だけが法律の後処理で終わり。

死は宗教観が大きく影響を及ぼしていると思う。

最近日本人はどちらと言えば「他人様の事には深入りしない」「小さな親切余計なお世話」などと常に周囲とは一定の距離を保つ特徴がある。この辺の変化がもしかしたら「自殺幇助」の社会的判断に影響を生み出す可能性もある。

生きる権利と死ぬ権利

それ自体は共に誰も否定できない真実であろう。

個人主義的な個々が独立し権利と義務が明確になっている社会においては、周囲が判断するのではなく、個々が判断すべき内容だろうが、日本は全体主義。全体主義は個々の判断だけは物事は動かない。とは言え最終的に個人の人生。昨今の「事なかれ主義」的に他人とまじ合う事を避ける風潮の中、日本も自殺幇助の立ち位置が変わってくる可能性もある。

いずれにしても、社会全体として「生きている事が楽しい」社会が目の前で繰り広げられていたら「死にたい」と思う人は減る。「死にたい」と思う人間が増えていると言う事は、生きていても楽しくない社会だから。それが結論なんです。でも「楽しい」とは何か?となった時に「笑ってストレスがない」も楽しい「苦しんで懸命に泣きながら努力」も楽しい「愚痴を溢しながら日々繰り返す」事が楽しい、と千差万別の「楽しい」がある。

笑いながらストレスなしで「生きる事が楽しい社会」にするには、法律やルールだけではなく個々の人生観に変化が生じなければいけない。金を追いかけ、時間に追われ、周囲の顔色伺いながらリスク回避を望む様な人間の集団のなかには、そう言った「生きる事が楽しい社会」は生まれない。

今回も昔同様、どれだけの人間が自分の人生を見直して、どれだけの人間が現状を打破して、自分が心から笑える人生に変える事ができるかが社会を変える第一歩になる。過去は結局多くの人間は現状から脱皮する事が出来ず、心のどっかではわかっているが失う恐怖、変わる恐怖、先々への不安に勝てずに「仕方がないよね」と言いかせながら、多忙に身を置き考えることを止めて、笑う事も止めて「忙しい忙しい」と邁進してきた。そして何度もこの様な事件事故を起こしては、同じことの議論に終始。いいかげん日本人は、それが日本だと自覚するべきと思う。

自殺幇助者を非難批判する事は幼稚園児でもできる程度の行動、にも関わらず大の大人がその繰り返ししかできない悲しさ。死ぬ権利を強く要望する者たちの心の悲しみが見えてくる。

価値観の相違が生じた時、相手を論破する事が称賛される社会。余りに人間の愚かが全面に押し出された社会。そんな社会で「生きる事が楽しい社会」は構築されない。

貴方が今心から生きていて楽しい人生を生きているならいいのだが、毎日愚痴をこぼし、苛つき、周囲を顧みず、嘘をつきまくり、全てを自分以外の責任だと責め立てているなら、それは貴方が変わらなければいけない。たとえ純白のメルセデスに高級マンションに、ブランドを身につける生活ができないとしても、貴方はそれを受け入れ、貴方に負担がかかり過ぎずにできうる生活を、貴方が家族に笑顔を見せれる生活、貴方が大切な子供と一緒にいれる生活を、貴方が自分の子供に教育をしてあげる事ができる生活を、貴方が貴方のご両親の面倒を見てあげられる生活を、貴方が毎日家族一緒に夕食をとれる生活を、高級レストランには行けないけれど、楽しい食事のテーブルを囲める生活を貴方自身ができるかどうか?そう言った生活を貴方は望んでいるのか?

答えは望んじゃいない。子供の教育は他者に委託、家族の食事も金で処理、親の面倒も金で処理。そんな事より「仕事」「収入増」「利益確保」それが貴方が望んでいる事。懸命に休まず、競争に負けない様、踏ん張っている現状を崩して、のんびりとしたスローライフに切り替える様なもので、多くの人間にはできそうでできない事。

自身の欲望との葛藤で、一定の精神的成就が成り立たない限り難しい。ましてや昨今の日本は精神的に幼稚化している様に見える。結局幼い頃から「処理する」事だけに注力し、手間がかかる面倒な事は「非効率」と言う言葉で切り捨てられている。故に面倒で悩み苦しみもがいてくる時間を過ごしていない為、より一層に単純化、見える化が進み「処理スピード」「滞りなく処理できる」事だけが注目する人間が増えている。では何故それを処理せねばいけないのか?処理する意味合いはどこにあるのか?本当にそれは最優先で処理せねばいけない事なのか?ではその反対側の立場はどうなるのか?善が悪で悪は善となる現実をどうするのか?などと面倒な状況下を叩きつけると、黙る。「アァ忙しい」と駆け出していく。

それと同様、今回の自殺幇助、死ぬ権利といった様な問題は、正解がない面倒な問題であるため、恐らく日本では有耶無耶になる。言い換えれば、正解がないんだから悩んでも意味がないと結論づけられる。

その様な社会では「生きる喜び、笑顔があふれる社会」は生まれてこない。生きる事で笑っちゃう社会が生まれない限り、死ぬ権利を行使したい人間は増えてくるだろう。

そして個人の欲望を満たしていく生き方も誰も否定はできない。多くの国民がそれを望む国の環境も誰も否定できない。そうなれば、結論は死ぬ権利の是非ではなく、死ぬ権利を容認していくシステムを構築するしか道はない。

日本に期待するのは、死ぬ権利の倫理観の議論ではなく、死ぬ権利をどの様なシステムを構築すれば「悪意による行使」を減らす事ができるかと言う議論を望む。

もう一度言うが、本来は「生きる事が楽しい社会」が存在すれば、「死ぬ権利」を否定しなくても「死ぬ権利」を行使したいと思う人間は減るのである。

しかし現実は将来のためのストレスを善とする社会。心から笑う事も忘れ、心から他人を愛する事も忘れ、心から家族に感謝する事も忘れ、年老いた両親を心から慈しむ事も忘れ、慌ただしい日々を滞りなく処理し、邁進していく事が人生だと思っている生真面目で画一的で神経質で懸命に対処する事が好きな民族はには「生きる事が楽しい社会」は似合わないし、望みもしないだろう。

それよりも「明日どうするの?」「何かあったらどうするの?」「ぼーっとしてたら取り残されるよ」「周囲に合わせられなければ、つま弾きにあっちゃうよ」「でも面白くねぇよな」「やってられねぇよな」「あいつら馬鹿じゃないの?」あぁでもないこうでもないと言いながら、毎日憂さ晴らしして慌ただしく生きて死んでいく事が、日本人には似合っているし、それが日本人であり、日本人の幸福。実際に「生きる事が楽しい」社会に日本人が入ってきら「おいおい、大丈夫かそれで?」「ちょっとのんびりし過ぎなっじゃないの?」「飽きちゃうなぁ」などと言って3年も経たないうちに「生きる事が楽しい社会」から抜け出していくと思う。最悪は「楽しい」事が「やばいんじゃない?」と言う不安に切り替わり、このままじゃいけないと「楽しい社会」を崩していくと思う。

それが日本であり、日本人と思う。

だから「死ぬ権利」の是非ではなく「死ぬ権利」を悪意で行使できないシステムを構築する議論をすべきだと思う。


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